Allegro con fuoco(1)
夜、部屋で勉強していると、インターホンの音がした。入浴中のおじさんに代わってインターホンの画面を覗くと、四十代くらいの女性が表に立っている。明後日にここを引っ越すからご挨拶を、ということで扉を開けると、お世話になりましたと女性がペコリとお辞儀をして、
「おじさん、お隣さんが引っ越しするって洗剤をくれましたよ」と、風呂から上がった音に向かって、廊下から声を掛けた。
「おおきに、洗濯機んとこに置いといて」
「お隣さんって一昨年こっちに来たばっかりですよね。もう引っ越しなんだ。まともに口をきいたのは初めてかも。エレベーターで何度か会ってたし、ちゃんと挨拶しておけばよかったかなあ」
どっちでもええと、いつものおじさんの口癖が扉の向こうから返ってくる。「みんな人付き合いが面倒でなあ、マンション暮らしなんてそんなもんよ。壁一枚分の隔たりやのに、その薄い壁一枚が分厚く断絶された国境みたいなもんやからな。付き合いないのも楽なもんや」
お先に、と言いながらおじさんが出てきて、ペタリペタリと素足の音を床に吸わせながらリビングへ歩いていく。彼女ができたことで恥じらいという経験値を増やしたらしく、最近のおじさんは腰にタオルを巻くことを覚えたようだ。まあ裸であろうが、パンツ一枚であろうが、タオルを巻こうが、僕にはどっちでもいいことだけど。どっちでもいい、というのは気楽な言葉だ。気楽で、誘惑的で、責任という重圧から身を護ってくれる蜂蜜のような甘い言葉。
合宿からひと月経ったというのに、僕はまだ、ミファの問いかけに答えを見つけることが出来ていない。
幾重にもなる薄衣の雲が空の向こうまで渡りゆく十月、粟崎さんがスペインから帰国した。まるまる二か月楽器を持たなかった手に違和感があると嘆いていたものの、時間が許す限りクラリネットに息を吹き込んでいて、一週間後のトュッティでは自分のパートをしっかりと整えてきた。はんなりと物腰の柔らかい粟崎さんのラフマニノフは、愛と情熱とささやかな憂鬱を偲ばせた情緒深いソロとなって三楽章を歌い上げ、納得のいく出来栄えにタダさんは満足げな表情を見せながら指揮棒を振っていた。ソロ自体をバッサリとカットされた僕の肩身はますます狭く、最高級肉のシャトーブリアンを目の前にして生協三八十円のカレーを
結局のところ、僕はファーストを吹くような器ではないということだ。世界を小さな穴から覗くことで満喫してしまうような、地味で引っ込み思案な僕の性分は、皆の前へ出たがるような承認欲求がすこぶる低く、ファーストの裏で音楽を支えるような裏方業の方がお似合いなのだ。これでいいんだと無理やり自分を納得させて、飛び出た釘にならぬよう慎重に曲の中へと入り込み、こうして僕の最後の外大演奏会へと静かに時は近づいていく。
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