Scherzo. Molto vivace(8)

 ふと、思いもかけず、タダさんの右手が目に留まった。

 ――同じ人差し指の、金色の指輪。

 お揃い? 二人でペアの? まさか……


「な、アルはどうしたらいい思うん」

「え?」とミファの質問が急に耳に入ってきて、何を、と思わず訊き返した。

「うちが帰化するかどうか、アルならどう思うんかなって」

 帰化のことなんて難しい話を今までに考えたことがなくって、徐々に力を失っていく自分の線香花火を見ながらしばらく考え込む。


 ミファはミファだ。日本人のミファと韓国人のミファ、どちらになってもミファはミファでしかない。

「どっちもミファらしいし、どちらでもいいんじゃないかなって僕は思うよ」


 ミファの複雑な感情を手荒く扱わないように、そして解決困難な社会的課題を殊更刺激せぬように、僕なりの優しさを出来うる限り込めて答えておいた。


 手にする炎の球が熱を失い消え失せて、光を奪われた四人の表情が暗くなる。

「……あ、そ。まあ当事者やなかったら、国籍問題なんて所詮は他人事やもんな」


 線香花火を全て使い切ってしまい、他の花火をしようかなとミファが立ちあがり、夏紀さんもここを離れた。女性の華やぎがなくなって、夜の生温い風が背中に当たり、小さな火を揺らし続けるロウソクと野郎二人の寂寞とした風景だけがこの場に残された。


 アルくん、と僕を呼びかけながらタダさんはもう一度髪をかき上げて、「今の答えはもういっぺん考えてみ。どっちでもええっていうのは相手に興味持たへんのと同じことや。これもアルくんへの宿題やな」と言い放ち、部屋へ戻るわと立ち去っていく。その背中を見ながら今の言葉を口腔で反芻はんすうする。


 ――僕なりの好意で応えたのに、どうして非難されるのだろう。


 ユン・ミファと星川美華。二つの名前に二つの国。国籍がどうとかなんて僕には空の上のような話であって、自分のことのように考えることができなかった。いや、この場合は、日本人でいて欲しいときっぱり断言するべきだったのだろうか。日本人であったら選挙権があるし、就職先も選択肢が増えるわけだし、ヘイトや差別、偏見からも逃れられる。かといって血のルーツを赤の他人が簡単に切り捨てればいいという訳にもいかないし、韓国人としての誇りだってあるだろう。


 僕はどう応えればよかったんだろう。


 翌日のトュッティは三楽章から。タダさんは僕の最も楽しみにしていたクラリネットソロをばっさりと飛ばして、その先から練習を始めた。この扱いに理不尽を感じないわけではなかったけれど、隣のミファがファゴットを鳴らすたびに昨夜のことが頭によぎり、気もそぞろで曲に集中出来るはずもない。この日の練習は散々で、リードミスを二回もした。


 夕方には団員たちがそれぞれのアンサンブルを披露する。弦楽器のアイネ・クライネ・ナハトムジークに、金管三重奏。クニさんとタダさんは、須々木女史からのたっての希望である情熱大陸を披露して、オケのツートップによる贅沢な宴に皆が酔いしれた。クニさんはなんと夏紀さんともアンサンブルをした。ブッシュ作曲によるバイオリンとクラリネットのための二重奏である。夏紀さんは当初タダさんにお願いしたらしいのだけれど、速攻で拒否されたらしく、急遽クニさんに代理をお願いしたらしい。それでもクニさんはさすがというか短時間で譜読みを終え、夏紀さんのクラリネットに寄り添いながら美しい弦の音を響かせていて、二人の息もピタリと合っていた。ミファはなんとチャングという韓国の打楽器を披露する。自前で用意したというチマチョゴリは黄色の着物に赤いスカートが鮮やかで、胸に抱えて叩く太鼓は勇ましく、踊りながら可憐に小首を傾げる様は花から花へと舞っている揚羽蝶のように愛らしい。バチを持つ白い手を見て、ゴールドキウィの爪と、昨日と今日で三回もやらかしたリードミスと、ここにはない金色の指輪を思い出し、ミファの優雅な舞いに相反するようにして僕の心はまた沈む。


 次の日、「ねえ、アルさん、知ってますか?」とオーボエの磯部さんからもたらされたのは、夏紀さんとタダさんの過去の噂話だった。小学生から付き合いがあったらしいとか、タダさん目当てで入団したとか、やるべきことをやってしまっているはずだとか、当の本人たちを置き去りにしたまま勝手な妄想だけが際限なく膨らんでいて、こうして二人の関係は全ての団員が知ることとなった。


 そしてその日以来、ミファが金色の指輪を付けてくることは二度となかった。

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