Scherzo. Molto vivace(4)

「クラリネットはアルくんが代吹きか? なんや、里見さんやないんか」

 また言われた。ここまで代吹きのことをみんなから問われると、自信という器が深く細かくひび割れしてくるようだ。「里見さんに代わりましょうか」と腰を浮かしかけた僕に、「やったらええやん」とミファが押し留めてくれた。


「ラフニのクラの代吹きなんてせっかくの経験やし、やらんと勿体ないやんか。アルとトップを吹くんって初めてやしな、一緒に楽しも」


 ここぞというときのミファの気遣いは、増殖したウイルスのようなひび割れさえも瞬く間に消してゆくような安定した響きがある。椅子へ腰を下ろす僕に届かないほどの小さな声で――でもこちらへしっかり聞こえているけど、「しゃあないなあ」とタダさんは呟いて指揮棒を上げた。


 ロマン派後期を代表するラフマニノフ交響曲第二番ホ短調は、一九〇六年から七年にかけて、ラフマニノフが祖国ロシアを離れてドイツのドレスデンで作曲したものである。ロシア帝国末期における政治情勢の不穏と混乱を避けてのことだが、そのメロディーは胸を掻きたてるほどの甘く切ない芳香に溢れていて、遥かなる祖国に思いをはせるラフマニノフの豊かな感性に頭の芯まで陶酔させられるほどだ。特に三楽章のクラリネットのソロ、このメロディーは、次から次へと緩急激しく押し寄せるドラマティックな曲調の中にもたらされたひとときの静穏な安らぎ――嵐の跡に咲いた一輪の白い蘭の花のようであり、聴くほどに人々はその美しさと儚さへ虜となってゆく。この三楽章をするとなったらどうしよう、いややってみたいという葛藤の狭間に心臓の筋肉が強弱を繰り返していたけれど、指示されたのは一楽章であり、肩を落としながらもビュッフェ・クランポンにいつもの口づけの挨拶をして楽器を構えた。


 冒頭のラルゴから始まるチェロとコントラバスの低いうねりは、木管とホルンの調和へと移る――うん、いい響きで入ることが出来た。夏紀さんの音は軽やかな風に乗って僕の音へ素直に乗ってくれる。ミファのファゴットも音の丸みがはっきりとした輪郭で描かれていて、クラリネットの音と相性がいい。


 ラフマニノフの木管は特殊楽器を含めた三管編成、一時間近くにもなる大曲であり、団員たちの気合も十分で、夏休み期間にしっかり譜読みをしてきたことが全体の演奏に表れている。それでも次々と押し寄せる旋律の荒波を正しい形に整えるのが難しくて、弦、木管、金管の繋がりを修正しつつ、タダさんの指揮は大きな揺らぎを見せながら振られていった。


「管楽器、もうちょっと小さく入って……弦を聴かすように……そう、そう。そこ、アウフタクトからもう一度。ああ、アングレは今おらんのか。エキストラさんはいつもの人やんな? そこ、ビオラもっと歌って。フルート、ちゃんと揃えて。ホルン、思いっきり、そう……リットはもうちょっと溜めるで。うーん、音が汚いな。金管、音程合わせて、真ん中を下げ気味に……ピウ・ヴィーヴォから分けてやろか」


 節々で発生する違和感を修繕しながら進めてきた演奏の船は、その難解さに苦しみながらも粛々と音楽の海を渡っていくのだけれども、「おお? ちょい待ち」と、ある一点で急にそのエンジンを止められた。


「ピウ・モッソのクラリネット。そこから一人でやってみて」


 指揮棒の先端が僕に向けられて、ただの四分音符の流れに何が引っ掛かったのだろうと楽譜の音符を凝視する。バイオリンから受け渡されたその旋律はごく単純なもので、せいぜい十小節ほどの長さしかない。周りのみんなが耳を澄ます中、タダさんの指示に従って一人で演奏し、首を捻りながら考え込むタダさんの次の指示を待つ。


「うーん……なんやこう、物足りひんな」

「どういうことですか。楽譜通りに吹いてますけど」と、指を楽器の穴へパタパタと押さえながら、タダさん特有である捉えどころのないふんわりとした指摘に訊き返した。

「ちゃうちゃう、楽譜通りでしかないから困っとんねん。どうすっかなー……」しばらく腕を組んで眉を潜めて、「まあ代吹きやしなあ、しゃあないか」


 パン、と指揮棒を台で叩き、「先行くわ」と僕を海へ放り出したまま、タダさんの指揮する船は再び前へと舵を取られた。


 代吹きだし、仕方がない……技術力の足りない者がここにいるのは迷惑だという含みのある物言いに、羞恥心と悔しさと気恥ずかしさが胸の奥底でガスのように膨らみ始めて、そのガスは困ったことに熱を帯びだして僕の脳みそから正常な処理能力を奪っていく。顔が熱くてたまらない。熱で膨張した僕の演奏の歯車は、ミファや夏紀さんの音と微妙に噛み合わなくなってきて、二つ隣のバスクラなんて遠い異国の地で鳴らされているような感覚に陥ってくる。美しい和音の掛け合いとなるはずのモデラートでは音の切れ端が醜く途切れ、クラリネットのユニゾンとなるパッセージでは夏紀さんから置いてけぼりだ。僕の焦りはますます酷く、けれども焦りが滲む僕の音はタダさんの指揮から全く無視されて、オケの演奏から取り残された僕のクラリネットは自信とプライドが見る見るうちに失せていく。最後のオーボエとクラリネットの大事な旋律で、僕はとうとう「ピウッ」という派手なリードミスを吹き鳴らした。


 リードミスなんて何年ぶりだろう。屈辱過ぎて、情けない。


 この日、ラフマニノフのトゥッティは午後も含めて二回行われ、最も楽しみにしていた三楽章を練習することは一度もなかった。

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