Scherzo. Molto vivace(3)

 防音室へ入ると既に椅子が並べられていて、何人かの団員が練習を始めており、ファゴットの音鳴らしをするミファの隣へ僕は座った。僕の右側に夏紀さんも着席し、贅沢にも両手に花の状態だ。


 夏紀さんのクラリネットはフランスのメーカーであるセルマーを使っていて、楽器に息を吹き込むたびに白い小花がひらひら飛び舞うような、開放的な軽い音を華やかに魅せていた。リードはヴァンドレンの二半、こちらもやや軽めのものを使っていて、息を吹き込むたびに白い羽根を付けられた八分音符が風に浮いてふわりふわりと空へ放たれていくようだ。僕のビュッフェ・クランポンは重力を感じさせる音を鳴らすから、隣で音を出すと凧のように空に浮かぶ夏紀さんのクラリネットを糸で引っ張っているような気分になる。


「瑞河くん――アルくんは、A管を自分で買うたん?」と、マウスピースから唇を離して夏紀さんが尋ねてきた。


 クラリネットはド(ツェー)の音がピアノの実音とは異なっている移調楽器というもので、アー管、ベー管、ツェー管、Esエス管など、管長の異なる種類が存在する。一般的によく使われるB管のドの音はピアノのシ♭になるし、A管だとドがラの音になる。ラフマニノフの二番ではA管とB管二本使われていて、曲の途中で持ち替えとなり、三楽章のソロもA管指定だ。ラフマニノフだけでなく、交響曲全般においてクラリネットの持ち替えはやたらとあり、楽器購入と財布の中身を天秤にかけて頭を悩ますクラリネット奏者は少なくない。「A管を持っていますか?」は、「今日は傘を持ってきましたか?」と同じくらいに、初対面のクラリネット奏者が挨拶代わりに使っている、勝手の良いコミュニケーションツールなのだ。


「うん、中古で半額になったのですけど」と僕は答える。

「私はな、オケを辞めた先輩から安く譲ってもらったんよ。でも去年のオケ連でリヒャルト・シュトラウスの家庭交響曲をしたん。Esクラ任されてな、そんなん自分で持っておらへんから大学で借りたん」

「すげ、Es管はまだ吹いたことがないですよ。僕にとっては未知の世界だ」


 通称Esクラと呼ばれるEs管はピアノのドがミ♭(Es)になる、若干小さめのクラリネットである。フルートで例えるならピッコロのように、クラリネットの高音域を任される楽器だ。


「うん、私も初めて吹いてな、調整しても音程合いにくくて、音がぴらぴら跳ねて、けど高い音って何吹いてても目立つやんか。大変やったんよ」と、夏紀さんの唇が緩く綻んだ。「な、ラフマニノフの三楽章のソロってA管やん、代吹きでもちゃんと吹けるん?」


 この言い方は慣れないA管を使うことに気配りしてくれているのか、それとも代替要員で吹けるのかという不安が滲んでしまったのか、はたまた僕には吹けっこないと初っ端からけなしているのかどちらなのだろう。指摘なんかされなくとも、今座るこの椅子が相応しくないことくらい僕にだって分かってる。生温い風に頬をはたかれたような気がして、噛み砕いた苦虫を吐き出すようなふてぶてしい感情のノイズを声へ入り混じらせながら、「吹けますよ」とそっけなく返事した。


「ふうん、頑張ってな」

そう言って夏紀さんはすぐに練習に戻った。弦楽器、金管、加田谷さんたちが入ってきて、座る前にこちらを見た。

「代吹きって里見さんやあらへんの」

「あ、僕がやることにしたんで」

 ふうん、と気怠そうに返事を残して、加田谷さんは席に座った。


 隣のミファがポコポコ音を出していて、僕も音の渦に交わっていく。さっきの会話以来ミファとは話をしていないけど、夏紀さんのことはどうなのだろう。気にしている? 事情を知らない? 鳴らしている音はいつも通りだけれども……ウダウダと考えをねている間にタダさんが指揮者台へ上がった。プロの客演指揮者は、本番ひと月前から週に一度トゥッティをしてくれることになっていて、それまではタダさんが指揮の代振りだ。弦楽器のプルトを確認し、管楽器の人数をいち、にいと指で数えながら――僕たちの方へ向けられた指がピタリと止まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る