Scherzo. Molto vivace(2)

「おうい、休憩終わったらトュッティ始めんで。一発目はラフマニノフや」というタダさんの声が後ろから届いた。「――え? 夏紀? 嘘やろ、なんでここにおんの?」


 元カノ二人の鉢合わせに遭遇するなんて、運が悪すぎるというか間が悪いにも程がある。この三人、どこまで事情を呑み込んでいるのかは知らないが、顎が開いた煮干しのような干からびた表情のタダさんを見るに、マズイことには変わりはないだろうなあとこの状況を心中楽しみながら――というのは口が裂けても言えないけれど、他人事のような呑気な思いを僕は抱いた。


 トゥッティ直前にクラリネットパートで話し合った結果、ラフマニノフのセカンド代吹きは夏紀さんへお願いすることにした。「私だって吹きたいのに」と、三回生の里見さとみさんが不服そうではあったけれども、里見さんはサマコンでチャイコフスキーのファーストを演奏したばかりだし、就活真っただ中にいる四回生の抜けている今、自ずと三回生が中心となるわけで、外大オケへ入団してくれた夏紀さんへのせめてもの配慮もある。練習でもいいから一度くらいはメインの代吹きをさせてもいいのではないか、と僕は里見さんに提案した。


 楽器の準備をするために鏡さんは和室へ戻り、彼女のフリル袖が消えると同時に里見さんが僕へ話しかけた。

「な、アルは何とも思わへんの」

「何がですか」

「あの子の入団のこと。わざわざ城西大から入団させんでもなあ、粟さんの判断もどうかと思わん? こっちも人数間に合っとるっちゅーねん」


 僕より二十センチ以上も身長の低い里見さんは髪の毛を後ろで一つに纏めていて、つむじの中心で日焼けを免れている頭皮が僕から丸見えだ。城西大から来ているよそ者への不信感がそこには含まれているようで、せめてもの反論を白い頭皮へ差し向けた。


「……僕だって城西大ですけど、ここへ来ちゃダメでしたか」

 ああ、ちゃうちゃうと里見さんは白いつむじを小さく振る。

「アルは最初からこっちにいるし、ほぼ外大生みたいなもんやからええねん。夏紀さんは三回生やろ? 城西大の人がなんで今更、外大オケやねんって思ってな」


 一回生から入団すれば団員として認めてもらえるけれど、三回生からだと気にくわないとはいかがなものか。その違和感を解消できぬまま「城西大オケはパート内競争が激しいからって言ってましたよ」と里見さんに答えた。「それと、タダさんと中高の同級生で顔馴染みだったのもあるし」

「え? 二人って知り合いなん?」

「はい、そう聞きました」

「二人で付き合っとったんか?」


 女の直感とは凄まじい。二人の関係を一瞬にして見抜いた里見さんの洞察力にほんの数歩たじろぎながら、知らない、さてどうでしょうと廊下の壁を見ながら白を切ったのだけれども、僕の不得手な即席演技など里見さんの直感力に敵うはずもない。


「はーやっと読めたで。あのタダのことやしなあ、どうせあの子にも大なり小なり手を出しとったんちゃう」

「ええ? ……いや、まさかそれはないでしょう。そういう決めつけもどうかと思いますけど……」


 うーん、さすが鋭すぎる、というか、タダさんってそこまで疑われるほど女癖が悪いのか? まあ、須々木女史率いる弦楽器女子軍団に囲まれても平然としていたり、合コンでは初対面の女の子とすぐに打ち解け合っていたりと、女性の扱いには随分と手慣れてそうではあるけれども。


「ま、しゃあないわ。ラフマニノフは任せたで、せいぜい城西大コンビで仲良うな。私は個人練習行っとくし」と、里見さんは身を翻して鏡さんの隣の和室へ入っていく。途端に肩の筋肉を締め上げていた力が足元まで滑り落ち、体の熱が冷めてきて、手のひらが湿っているのに気が付いた。


 どうしよう、タダさんの過去がバレちゃった。 


 まあタダさんのことだし、女性関係云々のあんなことやこんなことは日常茶飯事なんだろうし、葬り去りたいであろうやましい過去が一つや二つバレたところで気にすることもないはずだと、力及ばぬ猿芝居に無理やり自分を納得させる。大丈夫、大丈夫、今のことはもう忘れようと、冷たい汗でじっとり濡れる手をTシャツで拭いながら防音室へ足を運んだ。

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