Largo(5)

 お茶を飲んで一休みして、これからの予定を母と立てた。母が希望したのは道頓堀でたこ焼きを食べたいとか、新喜劇を観覧したいとか、新世界へ行って串カツを食べたいとか、ザ・大阪という街を心ゆくまでたっぷり堪能したいとのことだったけれども、夕方になってもなお三十度近い熱風が舞う中を歩き回るのはさすがにやめてと断った。海遊館とか大型テーマパークとか、誰でも行きたがるような場所を選ぼうとしないのが母という人物なのである。だいいち、動き回れる時間が夜しかないから訪れる場所も限られてくるわけで、最も手頃で無難な観光名所を、というので選んだのが日本一高い高層ビル、あべのハルカスの展望台だ。


 天王寺の駅へ戻り、食事を軽く済まし、料金を払ってエレベーターに乗り、地上三百メートルの展望台へと上がっていく。時刻は夜の八時過ぎ、遠くに見えるビル群にすっかり陽は落ちていて、窓一面からはるか見渡せる繁華街には夜空の星が煌びやかに散りばめられていた。新世界の先にある通天閣が静かにその姿を青く灯らせていて、周囲の星たちが青のかがり火に群がり輪になってキャンプファイヤーを楽しんでいた。十字に交差する道路は美しい燈色を帯びていて、青のかがり火をトーチのようにして燈の十字架の先に持つ。眠りを知らぬその街は神様が手に持つ地球色のトーチに守られているようで、平和なこの世を宇宙に浮かぶ淡い灯で祝福しているようでもある。


 神様……いや、下界に住む人の創り上げた星の乱舞を全身に浴びながら、綺麗だねえ、展望台なんて東京タワーで見たとき以来だよ、と母と一緒に窓辺で佇む。

「みんなでスカイツリーにも行こうって言っていたのにね……お父さんの仕事が忙しかったり、高校受験が重なっちゃったりで結局行けなかったよね」


 父の死のことをそれとなく避けながら話を弾ませているのが僕にも伝わる。父の仕事が究極に忙しかったことと、兄の年が離れているのもあって、家族五人で旅行をした覚えなんて僕の記憶にはほとんどない。それでも父は父なりに気に掛けてくれていて、祖父母と一緒にスカイツリーへ行ったらいいとか、母と弟と三人ならどうかという話も持ち出してくれたのだけれど、小学校高学年だった僕にはその組み合わせにどことなく気恥ずかしさを感じてしまい、父の欠けている家族旅行を断固拒否したのだ。


 今思えば、僕のちっぽけな見栄なんて気にせずに行っておいた方がよかったのかもしれない。母のためにも、死んだ父のためにも……


 父が亡くなり、母と離れてでも音楽にしがみついて、大学では無理かもと思ったけど、それでも運よく外大オケに入ることが出来たのに、その外大オケさえ失いそうで……音楽を辞めようか、いやもうちょっと続けようと何年も何年も往生際悪く続けてきたけれど、さすがにここら辺が潮時かなという気がしてきた。いや、実際は母と別れた時点で、本当の僕の音楽はすでに止まっていた――止めるべきだったんだろう。音楽というゴム紐が勿体なくて、手放すことがどうしても出来なくて、千切れそうなほどに薄く、細く、自分の勝手な我儘わがままをここまで伸ばして引っ張ってきただけなのだ。


 限りなく薄く引き伸ばされた僕の道は、どこもかしこも穴ぼこだらけだ。そして、その穴ぼこを開けているのは紛れもなく僕自身のエゴ故だ。


「僕、オーケストラを退団するよ」


 星に囲まれている水色の松明へ許しを乞うように、導き出した小さな決意を母に伝える。僕の方へゆるりと向けられた母の気配を感じた。

「どういうことよ……クラリネットを辞めちゃうってこと? 音楽を続けるためにこっちへ来たのに」

「うん、おじさんの結婚が決まって一人暮らしになったら、外大オケを辞めてバイト増やす。出来れば院にも行きたいし、生活費はなるだけ自分で稼ぐつもり」


 大事なものを手放すというのに僕の思いは淡白で、あっけなく、悔しさから逃れたというか、悲しさから解き放たれたというか、意外なほど滑らかに話すことが出来た。母は窓に映る青いかがり火へ顔を戻し、そっか、そっかと二回頷いた。


「亜琉が決めるんならそれでいいよ。バイトを増やしてくれるなら、お母さんとしても家計が助かるから。もう二十歳なんだし、大人なんだし、お母さんは何も言わないから、自分で決めるものは自分で決めなさい。やりたいならやればよし、やらないのもそれはそれであなたの人生。良くも悪くも結果が出るのはあなたの責任。生活の援助はするけれど、音楽に関しては助言なんて出来ないし、手助けも一切しないわよ、いいわね?」

「うん……」

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