Largo(4)

 夕方四時に合わせて母を駅まで迎えに行く。改札付近で僕の到着を待っていた母は、こめかみのあたりでファンデーションが白く寄っていて、濃い目の口紅が周りを残して消えていて、飛行機とバスと電車を乗り継ぎした五時間分の疲労が随分と顔に滲んでいた。僕の自転車に土産の入った紙袋と手荷物を乗せて、母は折り畳みの黒い日傘を手に広げた。


「きりたんぽラーメンとなまはげパイをお土産に買っておいたから、二人で食べておいてね」


 このお菓子、小さいときは亜琉も好きだったよねえという昔話から始まった母のお喋りは、地元の大学へ入学した弟の話に繋がり、ちっとも職場改善されない兄の残業、顔も知らない近所のどこそこさんの就職のことにまで及んできて、マンションに着くまで終わることのない怒涛の会話ラッシュに僕の方がくたびれてしまった。とにかく暑い、暑いのだ。熱せられたアスファルトに僕の体が豚肉となって燻られそうで、うんうんと相槌を打つ首にも容赦なく夕方の日差しが照り付けて、火照った首筋からこんがりと焼けた匂いが漂ってきそうだ。


「……でね、亜琉、聞いてる?」

「え? ああ、うん、聞いてる聞いてる」

「この間の演奏会、よく弾けてたよねえ。屋根の上の牛、だっけ? 名前が面白い曲だね。オーケストラのことなんてさっぱり分かんなくて――あ、ジャジャジャジャーンってやつなら、たまにCMで聴いたりするけど。お母さん、亜琉の演奏は何度も聴いちゃった」


 先日の外大の演奏会は茨城の祖父母も聴けるようにと、おじさんがユーチューブに上げてくれたのだ。


「亜琉の演奏を大学でも聴けるとは思わなかったよ。お義兄さんには感謝しないと」

「大学でもって……お母さん、中学でも高校でも演奏会に来てなかったじゃん」

「何言ってんの、行きたかったに決まってるでしょう」と、日傘の下の顔がこちらへ向けられた。「亜琉が来られるのを嫌そうにしてたから、親がいると恥ずかしいのかなあって気兼ねしてたのよ。お父さんがいないと、男の子の扱いってお母さんにはよく分かんないから……学校がネットにアップしてくれた演奏会は全部聴いていたよ」


 僕としては仕事でしんどそうにしている母に気を遣っていたつもりだったのだけれども、その気遣いと母との間に微妙な差異があったのか。そのズレをわざわざ修正するのも面倒で、ふうん、と母の話を軽く受け流しながら十分ほど歩いてマンションに到着する。


 母とおじさんが会うのは今年の正月、祖父母の家へ帰省した時以来だ。土産を渡し、息子がいつもお世話になります、いやいやこちらこそとお互いに社交辞令を述べて、「じゃあ、ごゆっくり」とお辞儀をしながらおじさんは家を出ていった。


「お義兄さん、今日はどこに泊まるって?」

「知らない。友人の家とは言っていたけど」

「あら、ご友人ね」と、母は荷物をリビングの床に置きながら、意味ありげな視線をおじさんの消えた玄関の方に這わせた。「もしかして彼女さんの家かしら」


 母の言葉にえっと驚きの声を吐き出した。あのおじさんに彼女――? そういえばここ数か月、帰宅が妙に遅かったり、帰ってこない日もあったけど、まさかそれが……? いやいや、嫁さんの「よ」の字どころか、彼女の「か」の字も出てないし、いつものおじさんの風船腹が頭をよぎり、あるわけないよと、すぐにその推測を打ち消した。


「彼女なんて浮いた話、おじさんから一度も教えてもらってないけど」

「あら、そうなの?」と、母は椅子に座って食卓に置いてある新聞を何枚か捲った。「先日だったかしら、家に電話をくれたのよ。今日の宿泊のことと、それから結婚前提に付き合ってる人がいることね。もし結婚が決まったら、亜琉の面倒を見れなくなるかもって丁寧にお詫びされちゃって。こっちの方が頼りっぱなしなのにね、お義兄さんには今まで本当に助けてもらったわ。これから亜琉の新しい下宿先も探さなくちゃ。仕送りの金額はひと月にいくらいるのかしら。十万で足りる? 家具とか電化製品も揃えなくちゃいけないし……あらやだ、そんなにお金を用意できるかしら……」


 新聞の記事数に負けぬくらい、母の口からは不安材料がどんどん溢れてくる。捲った記事には『城西大と城西外国語大学が統合へ』の文字が再び派手に踊っていた。統合、統合といえば結婚か……まるでタイトルがおじさんの結婚を祝福しているかのようだ。ああそうか、おじさんが結婚ということになれば僕はここから出なくちゃいけないのか。いつまで下宿を続けるのかを知りたくて、それで院のことを訊いたのだろう。結婚ってことになったら、ただの甥っ子である僕の存在なんてお邪魔虫でしかないんだから。母には弟の大学費用もあるわけで、ここを出るとなると負担はかなり厳しくなる。月十万とか、母に全てを任せるわけにもいかないし、そうなったらバイトをもっと増やして生活費に充てないと……院へ進むためにも勉強だってしなくちゃいけないのに……


 ――オーケストラ……音楽には金が掛かる。練習時間だって必要だ。音楽を続ける余裕なんて、果たして僕にあるのだろうか……

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