Largo(1)

 暗い天井が胸元まで落ちてくるような、もしくは大きな掌で湖の底から掬われるような感覚が意識をゆっくりと覚醒させ、枕元をまさぐってスマホを確認する――午前七時三十一分。一時間前に母からLINEのメッセージが入っていた。

『十六時時ごろ天王寺に着くから、駅に着いたら連絡するね』


 扉の隙間から紛れ込むコーヒーの香りとともに、埃っぽい空気を吐き出すモーター音が部屋に響いてきた。どうやら征樹おじさんが廊下で掃除機を掛けているらしい。生活面においてはとことん合理的――とどのつまり面倒くさがりなおじさんは、掃除なんてはたきと床拭きワイパーで手軽に済ますのが専らで、掃除機で、しかも休日の朝から家の掃除なんてめったにない、というかそんなおじさんを初めて見た。扉を開けるのと同時に掃除機が僕の足に当たって、「起きたんか、おはようさん」といういつもの朝の挨拶が掃除機のモーター音と重なった。


「おはようございます。今日は掃除が早いんですね」

「亜琉のお母さんが来るんやからな、おっちゃんも少しは気張らんと」と、掃除機を手にするおじさんの腕が忙しなく前後する。「脱いだパンツをそこら辺に置きっぱなしなんて出来へんやろ。ええ機会やし、おっちゃんの綺麗好きをしっかりアピールせなあな。朝ご飯、用意してあるから食べといてなあ」


 おじさんは風呂の際リビングで洋服を脱ぐ癖があって、風船のように膨れた下腹がいつも丸見えで、脱ぎっぱなしのズボンがソファに転がっていたりとか、せめてブリーフくらい履いてくれよとここへ来た当初は辟易していたのだけれども、人間というものはすごいもので、ひと月もすればそんな明け透けな日常にも慣れっこになっていた。同じ兄弟でも父はちゃんと脱衣所で洋服を脱いでいたのに、親以上にリラックスタイム全開なのは元より開けっ広げな性格だからか、長い一人暮らしのせいなのか、それとも楽観的な関西人特有のものなのか、果たして答えはどれなんだろう。


「お母さん、こっちに来るの何時やて?」

「夕方の四時になるみたいです」

「オッケ、じゃあ挨拶だけ済ませたら、おっちゃんすぐに出かけるからな。客用の布団も出しておいたし、いらんもん片付けたし、んー、んなもんかな。遠いところから来てもらうんやから、ゆっくりしてもらい」


 おじさんの市民オケの演奏会が終わってから一週間後の海の日三連休、三日目の月曜日は母の用事があるらしく、今夜一泊して明日の昼には秋田へ戻る。少しでも旅費が浮くようにと、おじさんはこの家での宿泊を便宜してくれて、代わりにおじさんは友人の家で飲み明かすつもりだという。「ありがとうございます」と頭を下げると、どっちでもええんやといつもの答えが戻ってきた。


 ちなみにおじさんの次の演奏会はラフマニノフ交響曲第二番だそうで、偶然にも外大オケの冬の定演と同じとなる。ラフマニノフの二番はとびっきり美しいクラリネットのソロがあって、粟崎さんが夢でうわ言を口走るほどにどうしても遣りたかったものらしい。曲が決定した際には小躍りして飛び跳ねるくらいに喜んでいたくらいだ。彼女の推しの漫画家である、北寄ススムのサイン入り漫画本を手に入れたときと同じくらい嬉しすぎるとはしゃいでいたが、僕にはその例えがいまいちよく分からない。


 リビングの食卓にはいつものように食パンとベーコン、卵焼きがあって、食パンをトースターへポイと放り込んだ。小麦の焼かれた香りがトースターの窓から運ばれてくる。カリカリ色のパンにバターを乗せると黄金の表面がトロリと溶けて、広げた端から溶けたバターが垂れてきて、親指に付いたバターを舌で舐める。牛乳とパンを食卓へ運ぶと、おじさんはコーヒーを啜りながら新聞を広げていた。


「新聞の字が小さあて読めへんわ。眼鏡はどこや、眼鏡」

「おじさんの腹の上に乗っかってますよ」

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