4・屋根の上の仔牛たち(15)

 ――クニさんの肩に乗るバズーカ砲……もとい、バイオリンは、奏者へ、指揮者へ、観客へ、壁へ、照明へ、天井へ――ホールの隅から隅までペンキを塗りたくるように、ありとあらゆるところへ音符の流弾を浴びせていく。城西大オケの轟音のような荒々しい砲弾とは全く異なる、タンゴの魅惑に揺れるビブラート波動砲は、その場に佇む僕たちを飴ちゃんのように包み、音符の粒子が肌の細胞からじんわり浸透し、ビブラートの震えが血液の波に乗って、心臓の筋肉を激しく叩いた。ラベンダーの無数の花弁がぱっと水面に散らされたように、もしくは幾千もの紫の風船が透けるような青空へ放たれるようにして、内に秘められた感情の暴露は周囲へと拡散し、世界の色彩を一気に塗り変えていく。


 クニさんのソロに続いて鳴らされる弦楽器の鼓動はより熱さを伴って、加田谷さんのオーボエはフルートとピッコロへの愛情をより深くし、間山のファゴットのソロと拍子取りはリズミカルに、その拍子に乗る粟崎さんのクラリネットは奇怪な酔いを増していく。アルコールの影響があるはずもないのに、粟崎さんの音はのぼせるような酔いを含んでいて、クラリネットの大事なソリが暴走しないよう僕がしっかりと手綱を取った。感情のうねりは金管軍団の演奏までも確変を起こさせる。派手に踊り回る彼らの音は激しく、狂おしく、観客の興奮をさらに煽った。ダンス、ダンス、ダンスへの希求と喝采。エネルギーの増幅された個々の音符を、打楽器のギロが規則正しく一つに統べる。


 ふと気が付くと、指揮棒を振るタダさんが困惑を含む笑みを口許に浮かべていた。「こいつら、ホンマに参ったなあ」と呆れているかのように、困っているかのように――でも指揮棒の上に音符の粒が乗っかるような不思議な感触が気持ちよくって、綿あめのようにして指揮棒に音符を絡めるタダさんもなんだかとても楽しそうだ。


 ラストへ向けて、演奏は怒涛の圧力を増していく。踊れ、踊れとオケを煽るように振られる指揮棒――と、タダさんはその指揮棒を下げて、手拍子を打ち出した。観客席に向けて大きく手を打ち、手拍子を催促する合図を送る。その合図に乗った観客が一人、また一人、演奏家たちの魅惑のダンスを応援して、観客からの手拍子に押された僕たちの音楽はラストスパートを迎えていく。ヒートアップしたオケの演奏は、その熱気をそのままに最後の四分音符を強く打った。


 こうして「屋根の上の牛」は、無事に演奏を終えた。


「ブラボー!」と叫ぶおじさんの声が、真っ先に僕へと贈られた。


 観客の拍手が唸る中、タダさんはクニさんと握手を交わし、肩を抱いてハイタッチを求めた――と思いきや、クニさんがその手を振り払って、タダさんの掲げた右手が空中で行き場をなくしてしまった。厳ついコンマス相手にして、「なんでやねん」とすぐさまツッコむイケメン指揮者に、観客から笑いと拍手が送られた。二人とも照れくさそうにしながらも綺麗な歯並びをしっかりと見せていて、元より笑顔の似合う色男タダさんならともかく、舞台の上でこんなに笑っているクニさんを僕は初めて見た。


「なあ、最後の方で手拍子あったなあ」と、隣の粟崎さんも一緒になって微笑んでいる。「手拍子させるオケなんて、ニューイヤーのウィーンフィルみたい。こういうのもなんか外大っぽくって、いいと思わへん?」


 そうですね、と僕も笑顔で答える。いい演奏だった、本当に。セカンドであろうとも、サブ曲であろうとも、今まで経験した中で、僕にとっての最高の舞台だった。


 音楽こそが、僕の人生を味わうダンスだ。誰かから命令されたわけでもなく、押し付けられたわけでもなく、自分の意思で、導きで、今、僕はこの舞台を踊っている。

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