4・屋根の上の仔牛たち(13)
街の荒くれ者から意外にもインテリな話が持ち出されて、アワサキーノさんの顔から溶岩の色が次第に引いていく。ニューヤンに逆らうことなど許されるはずもなく、促されるままに手元の鞄から紙の束を取り出した。「Symphonic dance」と表紙にある、百五十枚程度の小説だ。紙の束を受け取ったニューヤンは、椅子に腰を下ろして葉巻をふかしながらそれを読み、喧騒のゴミが箒で取り払われたような奇妙な静寂が場に戻ってきた。先ほどの噴煙で身体のアルコールをすっかり飛ばしきったアワサキーノさんは、いつものはんなり声を取り戻して、「どうやニューヤン、なんでも言ってみて。できれば優しいマシュマロ感想で」と、おずおず恐縮しながら自分の要求をマシュマロで伝えていた。
「……うーん、せやな」と、ニューヤンが顔を上げる。「途中までしか読めてへんけど、強いて言えばエロが足りんわ、エロが。男と女がぐううーってまぐわうくらいの。ほら、ここに書いてあるようなおっさんのパンツ、こんなん知ったところで誰が喜ぶねん。天下のデーモン出版社が相手なら、読んでドン引きするくらいのエロをもっと入れんとな。例えば(ピー自主規制中)とか、(ピー)とか」
「ア、アホか……これは少年少女向けの青春物語なんや。そんなん気軽に書けるわけあらへんやんか」と、狼狽えるようにしてアワサキーノさんが首を左右に振った。
「何をええ子ぶっとんや。千年前の紫式部でさえエロ書いてんやで」
「紫式部のことをそんな風に言わんとって。あの人は中宮様との内輪ウケで源氏物語を書いとるからな、まさか後世になってから見ず知らずの人にエロいやらロリコンやら評価されるとは思ってもえんかったやろ。内輪ウケのエロ小説とか秘密の日記とか、日本どころか世界にまで広まってもうて、私これからどうすんねんて頭抱えとるんちゃう。かなりのネガティブ作家やからな、生まれ変わっても作家になんか絶対ならんって、きっとあの世で泣いとんよ」
「んーまあそれくらい、エロは人類にとって必要不可欠なもんやからな。ちょっとくらいあってもええがな。それともなんや、お嬢ちゃん、恥ずかしくてエロを書けんのか?」
「まさか、書きたいに決まっと……ゲッフンゲフン、いや、この小説にエロがないのは私の信念やしな。書くんやったら別の作品で書いたるし」
アワサキーノさんの生真面目な倫理観に、僕としては落胆を禁じえなかったけれども、ほんの少しだけ好意も持った。酒さえなければ、この人はとことんいい人なのだ。「そういえば、デーモン出版社では人の醜い欲望とエロが巧く書ける作家ほど優遇されるって、どこかで聞いたことがあるなあ」と、僕がふと思いついたことを口にした。
「なんやて、それは聞き捨てならん!」と、アワサキーノさんの声が荒立った。「私の話には悪人がおらんからな、道理で書いたもんが本にならんはずや。デーモン出版社は人のエゴを餌にする悪魔やな。もう許せん、いっぺん私が悪魔祓いしたるわ」
首元に掛けていた十字架を両手に握り、立ち膝になって、アワサキーノさんは一心不乱に神様へ祈りだした。エロイムエッサイム、エロエゴエッサイム、エロエロエッサッサ……と呪文らしきものを口許でブツブツ呟いていて、酒があろうがなかろうが、この人はやっぱりどこかしら普通の人とは一線を画すというか、気違い染みているところがある。突如始まった悪魔祓いの儀式をどうしたもんかと、周りのみんながそのまま見守っていると――
「はいはーい、みんな手を挙げて」と、扉から拳銃を手にした二人の警察官が入ってきた。制帽に髪の毛が隠れていて判断しづらいが、声からするに女性である。
「警察が何の用だ」と、事情を瞬時に察したクニックの表情が硬くなった。
「言わんでも分かっとるんやない? この店で酒を出してるってタレコミあってな、今から警察の一斉取り締まりや。大人しくしときや、反抗したら即逮捕やで――はい、そこのカウンターに座る軽そうな男!」
「な、なんだよ」と、軽そうな奴だと婦人警官から即座に見抜かれたマヤマンは、声を震わせながらそれに応じた。
「そのグラス、こっちに押収させてもらうな」
婦人警官の示すものは、マヤマンのウイスキーが入ったグラスである。へ? とマヤマンはとぼけたような表情をするものの、演技がわざとらしくて下手くそ極まりない。
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