4・屋根の上の仔牛たち(10)

 舞台へ上がっていく加田谷さんに続いて粟崎さんの影も動く。影がくれたはんなり声が耳の中へするりと流れ、淹れたてのコーヒーに注いだ牛乳のように、グルグルと渦を巻きながら僕の世界へ溶けていった。


 舞台の上は朝焼け色だ。照明の落とされた雛壇に上がって譜面台に楽譜を広げた。客席に目をやると、律儀すぎると言うべきか、おじさんが母からの言いつけをちゃんと守っていて、最前列に陣取り三脚付きのビデオカメラを回していた。最前列なんて音の響きも良くないし、恥ずかしいからやめてくれと、おじさんのカメラから目を逸らして無言の合図を出していたのだが、その願いが通じたのか、あるいはカメラの角度が悪いのか、それとも譜面台で顔が隠れてしまうのか、おじさんは三脚とカメラを担いで後ろの席へとすごすごと下がってしまった。客席の真ん中の辺りにおじさんは座り、控室から来たミファがその列の端っこに座った。


 全く、おじさんは親じゃあるまいに、と思わず朝の一言がぶり返す。父が生きていれば、あの最前列には父と母がカメラを回して座っていたのだろうか。茨城の高校を卒業して、東京の大学に入り、父と母を演奏会に呼んでいるような全く別の並行世界。最前列の特等席には今は誰も座っていなくて、カメラを持ってきたのはおじさんで、LINEと花束が母代わりだ。全てが思うようにはいかないもので、あの頃ピュアに思い描いていたキラキラした未来とは全く違う形になってしまった。


 運命の道にでっかい石が落とされるってミファは言っていたけれど、僕の場合は穴ぼこや水たまりが道に開けられるような感覚だ。些細な行き違いで穴が深くなったり、正しい道だと信じて進むと落とし穴へ嵌ったり、自分の不手際で穴を広げてしまったりと、虫に食われた葉っぱのように歪んで変形しているグズグズな道だ。穴から這い出す気力も出なくて、ただひたすら泣いて悔やんでいるときもあるけれど、それでも前へ行こうと思えるのは、いつもどこかで道の脇に花を植えてくれる人がいてくれたから。虫食い状態のボロボロな道に咲く、密やかで美しい小さな花たちは、道へ這いつくばる僕へのささやかなご褒美だった。この花が咲いているから、僕は穴から這い上がることができる。前に進もうとする勇気が湧く。その花を植えてくれた人たちへ、僕はまだ感謝を伝えきれていない。


 ――おじさん、ビデオを撮ってくれてありがとう。お母さん、花束を届けてくれてありがとう。粟崎さん、僕の音を信じてくれてありがとう。ミファ、間山、そして城西外大オケの人たち、よそ者の僕を受け入れてくれて本当にありがとう。


 僕は好きって言うのも伝えるのも不器用で、他人に混じって人生を生き抜く術が究極にどんくさい奴なのだけれども、それでもクラリネットさえ吹いていれば周りの世界と繋がることが出来ていた。音楽をすることだけが自分の信念を伝えることが出来る唯一の手段であり、僕のあるべき場所だった。いくら道がズブズブに凹もうとも、穴の多さに絶望しようとも、それでも音楽だけを頼りに、花を植えてくれた人へ感謝を届けるために、足を引きずりながらでも僕は前へ歩いていく。


 チューニングが始まって、ビュッフェ・クランポンのリードにそっと唇を近づける。本番用のリードは葦の香りが新鮮だ。丁寧にクリーニングされた貴婦人の穴を、僕の指がそっと押さえる。指から感じる空気の感触。うん、今日の調子も悪くない。


 ――どうかいい音をお願いします。


 舞台には陽が昇り、眩い照明に当たりながら燕尾服のタダさんが下手から現れた。拍手と共にお辞儀をして前を見据える。タダさんの視線の先には、きっとミファがいる――そしてミファもきっとタダさんを見てる、そんな気がする。

 指揮台へ立ったタダさんは、僕たちをゆっくりと見渡して、小さく頷き、白い指揮棒を前へ掲げた。弦楽器の弓が上がり、二つ隣の間山がファゴットを抱える。

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