4・屋根の上の仔牛たち(9)

 ふと思い立って、楽器を持った姿を自撮りしてそのまま母へLINEした。既読になってほんの数秒後に、親指を立てる大きな手のイラストが贈られてきた。小さな世界の隙間からこっそり割り込んできたウサギとゴリラ、親指イラストの入ったスマホと黄色い花束たち――それらを傍らのテーブルに置き、控室で一人黙々と練習を続ける。モニターからの曲は四楽章のラストを迎えている。


 ゲネプロが終了したようで、団員たちが控室へ戻ってきて部屋は騒々しさを取り戻した。「トイレ行ってくるわ」と間山が楽譜とファゴットを置いて外に出る。ミファの作った楽譜を見ると、間山の書いた汚い字が元々の美しさをすっかり損ねていたけれど、それでも紙の張りは失われずに――まるで楽譜を介して間山の演奏を指南するかのように――その丈夫さを今なおキープしていた。本番用の黒の背広に着替えて、加田谷さんのオーボエアーの音で四四二ヘルツをチューニング、開場時間も迫ってくる。舞台へ向かう間山に頑張れよとエールを送り、モニターから演奏を見守った。


 十分ほどしてオープニングが終わり、舞台のセッティングの間にステージ脇へ行った。サブ曲「屋根の上の牛」の演奏を控えている団員はその場にとどまり、出番のない者は控室へと戻っていく。


 表情の輪郭が消える暗闇の中で、「間山くん、タダさんから指摘された箇所はもう大丈夫やんな?」というミファの声と、「だぁいじょうぶだから、あっち行ってて」という間山の苛立った声が続く。


「控室にファゴット置いたら、すぐに観客席に行くな。間山くんの音をちゃんと聴いとくからしっかり演奏するねんで」

「げえ、そこまでしなくてもいいって。せっかくの空き時間なんだし、控室でグースカ寝といたらいいじゃん」

「うちがチェックしておかんと、間山くんってすぐに演奏サボるやんか」

「本番でサボるわけねえだろ!」と、なんだかんだと文句を垂れつつも、間山の手にはミファの楽譜がしっかりと握られていたりする。


「木管のみんなも頑張ってな」ミファの声がこちらへ届いた。「うちな、加田谷さんのオーボエがめっちゃ好きやねん。ビブラートの波が胸の辺りをそそってくるっていうか、腕にも水しぶきみたいに鳥肌立つときあって、城西大のオーボエよりも絶対に上手いと思っとんよ」


 ミファがおだてりゃ誰だって、木でも柱でも登りたくなるだろう。加田谷さんも例外ではないようで、その場に木がないから登ることはできないが、手のひらを開けてミファに何かを見せていた。

「ミファ、これあげるわ」

「え、何……?」と、手のひらに顔を近づけて形を確認していた。「もしかして飴ちゃん? こんなんどこに持ってたん」

「秘密」と、意味ありげな声色を滲ませて、飴ちゃんがミファの手に押し付けられた。「これ持っといて。うちからのほんの気持ちや」


 ミファは疑問符を六個ぐらい含ませた「はあ……?」という気のない返事をし、よう分からんと言い残して控室へ下がっていった。「ミファさん、俺も頑張りますねぇ!」という扇田の元気な声が彼女の背中を追っていく。


 さて、僕は僕で喉元までせり上がってきた緊張の渇きをなんとかせねば。楽器を片手に肩を大きく上下させていると、「アルくん、今日はよろしくな」という粟崎さんのはんなり声が薄暗闇の中から聞こえてきた。


「あ、こちらもお願いします」と、はんなり声の影に応じる。「粟崎さんの音を邪魔しないよう、大人しく演奏しときますんで」

「え? なんで邪魔やの」

「え? だってセカンドだし……」

「セカンドやから大事なんやないか」と、細い影がはんなりと返してきた。「アルくんの音ってな、輪郭をクッキリ付けてくれるっていうか、私の音に真っ直ぐな芯をくれとんねん。アルくんは真面目やからな、素直な音をしとって一緒に演奏しとると安心できるんよ。頼りにしとるし、今日は隣でしっかり鳴らしてな」

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