4・屋根の上の仔牛たち(3)

「弦! ずれとんで! ちゃんと棒に合わせて!」

 バイオリンのシンコペーションがダメ出しのテコ入れをされて、とうとうクニさんが楽器を肩から下ろして目くじらを立てた。


「ここまで指揮を変えられるとほとんど暴挙に近いな。演奏が合わんくなるのは当たり前だろ」

「なんやねん、クニ、俺の指揮に従えんっつーことか?」と、手を降ろしてクニさんを睨む。

「俺たちのことを奴隷か下僕とでも思ってんの? 城西大オケへの個人的なやっかみに俺たちを巻き込まないで欲しい、そういうことだよ」


 クニさんの的を得た毒舌がタダさんの顔を赤く塗りたくる。茹でダコの呪いが鋭い火花となって二人の間に飛び散った。オケを代表するツートップの険悪なムードに僕たちは冷や冷やしながら見守るだけだったが、やがてタダさんの方から視線を逸らし、「も一回、最初から通すで」と指揮を振ってそのまま練習は無事に終了した。


 次の日は「屋根の上の牛」の木管セクション練習だ。桶男ポスターの貼られた木セク部屋にて、牛のメンバー六人が並んでプウプウ音を鳴らしていく。

「うーん、前とあんまり変わった気がせんなあ。どうしてもイメージがつかめへんねん」


 木管組の悩みどころに粟崎さんが首を傾げる。タダさんの求めていてた水あめ飲酒演奏なるものを目指したけれども、さらりとした水がすぐさま酒や飴ちゃんへ変わるはずもなく、いつも通りの演奏をそつなくこなすだけである。加田谷さんもホンマや、とそれに追随した。


「大体な、本番直前にもなってイメージが伝わらんって、いくらなんでも教え方が下手くそすぎんねん。他のパートも散々やったし、これはタダに責任あんで」

しげじいも、弓がついていけてなかったですしね」

「重じい一人だけボーイングがずれてましたよね」


 加田谷さんに続いて一色二式さんの口から飛び出た「重じい」というのは、バイオリンにいたおじいちゃんだ。富重とみしげという外大の教授である。粟崎さんから聞いたのだが、富重教授はこの大学でロシア語の教鞭をふるっていて、なんとこの管弦楽団を創部した人でもあるそうだ。チャイコフスキーやラフマニノフといったロシア音楽が大好きで、管弦楽団に人を集めるため吹奏楽部の創設を阻止した経緯もあるとか、ないとか。僕が知らなかったのも尤もで、本番直前になるとふらりと現れ、いつの間にか消えているので、練習で会えること自体が奇跡らしい。


「重じいは年齢的に体力がアレなんやけどな……まあとにかく奏者を混乱させてる時点で指揮者失格やで」

「イメージなんて考えずにこのままやっちゃいましょうよ」

「そうそう、指揮者のことなんて無視しちゃいましょうよ」

「いつかのトュッティも同んなじとこを延々と繰り返すばっかで、待ってる方の身にもなってってなあ」

「タダさんって、音程の取り方も微妙なときがありますよね」

「怪しい和音もいっぱいあるのに、それは無視なんですよね」

「拘り方がおかしいっていうか、指示もバイオリンに偏るしな。管のことをちっとも分かってへんのやろ。オケ全体を見渡す力があいつにはないねん」


 加田谷さんと一色二式さんたちの悪口雑言はどんどんヒートアップしてきた。タダさんへの攻撃なんて普段は耳にすることもないのに、一旦雨が降り出すと澱みきっていた不平不満の川は一気に増水してしまう。僕や粟崎さんは黒々とうねる濁流を前にして身動きひとつ取ることが出来なかった。濁流はかさを増して堰を超えつつあり、ついには限界水域を超えてきて、「タダには指揮が向いとらん」と加田谷さんが一気に鉈を振り降ろそうとしたその瞬間――


「もうやめようぜ、そういう話。イメージ考えたらいいんだろ。そんなの簡単じゃん」

 会話の川べりへ土嚢を積んでくれたのは、今まで黙っていた間山だ。重そうなファゴットをストラップから外して床にそろりと下ろしている。

「中学のときにも同じことを言われたなあ。ハイドンの木管アンサンブルをしたときに、曲のイメージを作れって後輩から宿題にされてさ」と、ファゴットを脚で挟んで茶色いベルを両手で掴みながら間山は言った。

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