4・屋根の上の仔牛たち(2)

「――クラリネットは人数が間に合うとるからダメージあれへんけど、うちの心にダメージ食らってもうてな……」と、見えない涙をさめざめ流しながら、粟崎さんはリードを水で濡らしていた。「飲み会が怖いとか、どうのこうの言われたん。飲み会なんてオケと関係あらへんのに、なんでやねん、なんでやねん……」


 なるほど、辞めた子の本音が垣間見えた。なんでやねんエコーがとめどなく続く粟崎さんをこれ以上傷つけまいと、何も言わずに楽器を持ってその場を離れた。


 全員が着席し、お願いします、といつものように指揮者タダさんが挨拶をしてトュッティを始める。指揮棒を振り、まずは最後まで曲を通す。本番一週間ともなると、音符の縦線を合わすとか、リズムを整えるとか、弦と管のバランスを取ったりとか、それくらいのことしか曲に手を加えることはできない。本番直前で曲を弄り過ぎると、奏者が混乱して本番に影響する恐れもあるためだ。今日もせいぜいいつもの音程チェックから始まるかと思いきや――


「ちょっと待って」と、タダさんは指揮棒で譜面台をパンパンと叩いた。「Aのモデラートから、オーボエとバイオリンだけやって」

 加田谷さんの指とバイオリンの弓が指揮棒に合わせて動き、すぐにタダさんは曲を止めた。

「ここな、もうちょっとゆっくりめにするわ。重うく、もおっと情熱的に、オーボエ歌って、……ちゃうねん、そのテヌート、もっとぬっとりとした感じで」

「えらい今までと振り方変えるなあ。ここまで揺らすとバイオリンと合わへんで」と、リードから口を外した加田谷さんが文句を垂れた。


「俺の指揮についてこれんの?」

「出来んことはないけどやりにくいって」

「指揮が分からんかったら、クニの弓の先見てやって。こっから先、他の木管も入って」

 恐る恐る僕たち木管組も曲に乗るが、前よりもテンポがかなり揺らいでいるせいで、木管とバイオリンの縦線がブレてしまう。


「こんなに急に変えられてもねえ」「出来ませんよお」と二人口を揃えるのは、フルートの二回生、一色いっしきさん・インドネシア語とピッコロの二式にしきさん・フィリピン語である……いや、一色さんがフィリピン語で二式さんがインドネシア語だったか? 小柄な背丈やぱっつん前髪といった見た目も瓜二つの女の子たちで、年も同じなものだから、どっちがどっちの名前で言語なのかいつもこんがらがってしまう。


「どうやったらいいのか分からないので、はっきりしてくださーい」と、一色二式さんのどちらかが発言した。

「うーん、前にも言うたやないか、木管はお上品すぎるって。もっとこう、水あめみたいな、酒飲んどるみたいな、ネッチリ絡みつくヤらしい感じに仕上げたいねん」


 どういうことやねん、と隣の粟崎さんが呟いた。このひと月でダイナミクスやフレーズの取り方など、木管の演奏はかなり改善されたはずなのだが、いったいこれ以上に何が足りないというんだろう。まさか本気で飲酒演奏をしろとでも言うのだろうか。


 この日、大幅に手の入った箇所はここばかりではない。リタルダンドはより遅くなってテンポの切り替えに苦労したし、木管ソロはバラードというよりも演歌のようにこぶしが入る。金管は金管で音量上げろと指示されたのをいいことに、トランペット丹生さんとトロンボーン、ホルンは嬉々として音を張り上げ、肝心の弦楽器の旋律が消えてしまった。


ここまで手直しされるとオケ全体に影響出てくるのは必然で、伯太団長の鳴らすギロ(ヒョウタンで作られた打楽器)のテンポは幾度となくつんのめり、弦の八分音符はまるでドップラー効果のように二重、三重と滲んでくる。椅子を運んでいたおじいちゃんOBは曲の変化になかなか追いつかないようで、弓がずれるたびに隣の城西大エキストラが困ったような顔をしていた。

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