4・屋根の上の仔牛たち(1)

 サマーコンサートまであと一週間を切った。月曜は生協二階の大会議室を借りて「屋根の上の牛」のトゥッティが行われる。


 十八時のトュッティ開始に向けてパイプ椅子のセッティングをしていく。本番近いということもあって、エキストラに就活中の四回生、OB・OGも練習に参加してくれるから、会議室に並べられた普段の二割増しの椅子を眺めるだけで遣りきった感になるというか、よい練習が期待出来そうで満ち足りた気分になる。「バイオリンは四プルでええんか?」と背広を着た初老の男性に尋ねられた。五十――六十近いのだろうか、ツーブロックに分けられた髪はほぼ白くなっていて、腰のあたりに何本もの横皺が寄る鼠色の背広は、猫背も相まって物悲しい気配を漂わせている。はいそうですよと答えると、老人は小さな体の両脇に椅子を抱えて次々と運んでいた。


 やけに年いったOBがいるもんだなあと、席をキッチリ揃えたり譜面台を立てたりと小忙しく動く老人を眺めていたら、「おうーっす」と、後ろから膝裏を蹴られた。カクンと膝を崩して座ったまま相手を見上げると、思った通りの扇田ヒゲトだ。


「ヒゲ……じゃない、キヨトさん、今日も髭が元気そうだね。下からだと一段と素敵に見えるよ」

「おう、せやろ、毎日大事に育てとるからな」と、扇田は伸びた髭をピンと引っ張った。「一昨日の演奏会どやった? あまりの迫力にビビって腰抜かしたやろ」

 ああ、と返事して立ち上がる。「――腰も抜かしたし膝も崩れたよ。格の違いを見せつけられて、もう二度と聴きたくないってマジで思った」


「ホンマけえ、悪いなあ、ぐふっ。もちろんミファさんも来てくれたんよな? キヨトくんカッコいいぃとか、キュンキュンしちゃうぅとか、なんかこう、クネクネ悶えとらんかった?」

「うん? うーん、どうだったかな……」


 先日のことを思い出してみたが、扇田の「お」の字もミファの口から出ていなかったはずだ。というか美華のことばかりに気が取られて、扇田が出演していたことすら忘れていたような。ミファの応援を一ミリも疑うことのない、たるんだ瞼から覗くつぶらな瞳を見ていると、真相をバラすわけにもいかなくて、「こんなオケで活躍する扇田くんを尊敬しちゃう、って涙してたよ」と苦し紛れのホラを吹いておいた。


 そうかそうか、と僕の出任せには全く気が付かないようで、扇田は嬉しそうに頷いた。

「やっぱりミファさんはええ人やのお。まさに俺の理想のアイドルや。ミファさんのためにも外大演奏は張り切ったんで。見てみいホレ、買うたばかりの弓や。ええ演奏したるがな」


 黒いケースを開けるとピカピカ光る弓がある。

「わお、すげ……いい値段したんじゃないの」

 鼻高々に明かされた金額は、信じられないことに僕のクラリネットの倍の値段はあった。高校のときに手に入れた僕のビュッフェ・クランポンは母が大事な保険金から捻出して購入してくれたもので、それ相応の額をしているというのに。確か扇田はトランペットも高校生らしからぬ高級品を購入していたし、大学まで通う車は排気量二千CCのハイスペックモデルだ。この羽振りの良さはいったいどこから来るのだろう。


 トゥッティの時間が近づいて、団員が続々集まってくる。見知らぬ女の子が二人、バイオリンを持って部屋に入ってきた。扇田情報によると城西大からのエキストラらしい。

「合コンで誘っとる女の子たちや。よろしくな」と言って、扇田は練習に向かった。

 僕も練習を始めようと楽器を組み立てていると、「こんにちはぁ……はあー」と気怠そうな声が僕に掛かった。オーボエ加田谷さんかと思いきや、そのため息の出どころは粟崎さんの口だった。


「どうしたんですか? 大事な漫画でも買いそびれました?」

「漫画はちゃんとゲットしたんよ。前から欲しかった北寄ススムの短編集なんやけどな……って、ちゃうねん、クラリネットの一年の子が女コラ(女性コーラス)に入りたいからって辞めてまうねんて」


 なんと、入って二か月で退団とは。この大学では管弦楽団、合唱、クラシックギター、軽音部、それぞれが新入生を巡ってし烈な争奪合戦を繰り広げている。少子化の影響で学生の取り合いは音楽活動の中にも影響しており、もし外大に吹奏楽部があったなら、管弦楽団は人材不足で壊滅していたことだろう。女性コーラスはSNSを駆使したアピールが評判よく、ここ最近の人材確保では管弦楽団と肩を並べるほどである。その貴重な団員を一人、ライバルに奪われてしまった、とのことだ。

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