3・変人たちの集う夜(18)

 指揮棒と共に、レニングラードを讃える歌が弦楽器によって奏でられた。ショクタコ―ヴィチ交響曲第七番「レニングラード」は、ソ連の主要都市であるレニングラード――現在のサンクトペテルブルクがナチス・ドイツ軍によって包囲されたときに作られたものである。戦争への怒りと恐怖、束縛と服従をテーマとしていて、ナチス・ドイツのファシズム体制への批判であるとともに、レニングラード市民に長年の精神的苦痛を強いたスターリンへの反抗心も、栄光を讃えるファンファーレの不協和音に忍ばせている、とのことだ。


 美しいレニングラードの街並みに太鼓の音がせり上がり、ナチス・ドイツ軍の足並みが地面に響いて伝わってくる。最初はひたり、ひたりと。そのうち大量の歩兵軍は街を占拠して、市民を拘束、弾圧し、銃が――金管が総勢で構えられ、すべてのベルがこちらに向けられた。


 一斉射撃――


客席に向かって音符の散弾銃が火を噴いた。幾千もの銃声、飛び交う血しぶき、逃げ惑う人々の悲鳴。建物はことごとく破壊され、道路には無数の穴が開き、死体の転がる地面には赤い血が流れゆく。


 砲弾、砲弾、また砲弾。


 戦車は石畳を踏みつぶし、大量の弾が宙を飛びかい、平和に毒された無抵抗の僕たちは、奏者によってなすがままにいたぶられ、腕がちぎられ足がもがれ脳漿を飛び散らせる。百人にもなるオーケストラの作り上げた戦争の悲鳴は、ホールを破壊させるがごとく爆音を轟かせて、僕たち観客はそれに屈するしかなかった。


 爆音、爆音、また爆音。


 すべてが焦土と化したのち、生き残ったレニングラードの民衆が再び立ち上がる。わが祖国に、勝利あれ――城西大オケ金管軍団の鳴らすファンファーレがホールの壁をぶち抜いて、大空へ勝利の旗を翻させた。僕たちが抱くささやかな自尊心というものは、城西大の旗の下に完膚なきまで打ちのめされて、その演奏にひれ伏すしかなかったのである。


 演奏が終わり、敗北を喫した僕たちは足踏みも弱く項垂れながら駅へと向かった。これほどまでに凄まじい戦争――もとい、演奏を耳にして平常心を保てる者などいるだろうか。ショスタコ―ヴィチの轟音は耳の繊毛を未だに揺らし、記憶の音符が脳細胞を破壊し続けている。僕たちの歩みからタダさんが遅れていることに気が付いて、後ろを振り返った。歩道の真ん中で立ち止まっているタダさんは、ショスタコの呪いでも掛かっているかのように、顔が茹でダコ色で染まっていた。


「タダさん、大丈夫ですか」

「大丈夫なわけあらへんで」ショスタコの呪いか、もしくは茹でダコの怒りかは知らないが、タダさんの形相が憤怒の皺で完全に崩壊していた。「あの演奏聴いてどうやった? 俺らと同じ大学生やぞ。音大生でもプロでもなんでもない、ただのド素人の集団や。なのにあの演奏やで。コンクールで賞を狙うとか、賞金が貰えるとか、そんなん一切なしやのに、なんであんな演奏ができるんや。金か? 人材か? 練習か? それとも情熱か?」


 桶男ポスターのごとく、タダさんの頭上から波線三本の蒸気がモクモク湧き上がっているようだ。茹でダコの霊の乗り移ったイタコのようにワナワナと体を震わせて、握り拳を高々と天へ掲げた。

「――アカン、アカンで! こうしてはおられん。帰ってすぐにスコアの見直しや。クニ、先帰らせてもらうわ。見とけよ城西大、外大オケの底力を今こそ見せつけたるわ!」


 こめかみの血管が一本、二本、プツン、プツンと切れたような音がした。タダさんはウガーッと吠えながらダッシュでこの場から消え去ってゆく。残された僕たちは唖然として砂煙舞う後姿を見送るだけである。

「知らなかった、タダさんってブチ切れるとあんな風になるんだ……」と、僕の呟きがポツリと出て、「うちもあの顔は久しぶりかもしれん」と、目を開いたままのミファが感想を漏らす。


「だから言っただろ、あいつには裏の顔の匂いがするって」クニさんは呆れたように声を出した。「今の演奏でプライドを著しく潰されたんだろうな。生徒会長とか、部長とか、指揮者もそうだけど、あいつは生まれたときからずっと、何でも出来て当然の環境だったらしいからな。愛想よく振りまく普段の姿なんて所詮はまがいもんで、欲と嫉妬が滲み出ているあの顔の方が本性だよ」

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