3・変人たちの集う夜(17)

 いやいや、と僕は思い直す。城西大オケの入団テストのときだってそうだったじゃないか。あのときもまた「一緒に受かろな」と、僕を振ったことなんて微塵も感じさせずに、この子は爽やかな笑顔を見せていたのだ。いつも未来だけを見ている、言い換えれば過去を振り返ることもない、美華はとにかくガンガンやろうぜをモットーに前へ進んでいく女の子なのだ。


「ミファはな、私と名前の漢字が同じなんよ。――なあ、ミファ?」

 美華の呼びかけに、ミファは何も答えることなく首をキュッと引っ込めた。

「ミファって漢字で書くと、美華なんやって。私とおんなじ漢字やで、すごいやろ? 『ミファって名前が可愛い』って言ったら喜んでくれてな、私の一番の友だちやってん――あ、こちらにプレゼントをお願いします」


 次から次へと差し入れが回ってきて、美華の仕事は途切れることなく忙しそうだ。タダさんクニさんが先に客席へ向かっていて、じゃあ頑張ってと美華に言い残し、慌てて二人で追いかけた。ミファの表情をそっと窺うと、いつもの元気はどこへやら、笑うこともなく悲しむこともなく、強力な洗剤でも使ったかのように表情というものがごっそり消えている。気の利く言葉一つも思い浮かばなくて、こういうときの立ち振る舞いの未熟さが本当に情けない。


 一階ホールの後方に、タダさん、クニさん、僕、ミファの順で座った。ミファから漂う微かな香水に浸りながら、今の状況を頭の中で整理した――美華とミファは小学校の幼馴染であり、高校のときは僕の彼女だった。半年だけだけど。美華の親はIT会社の重役をしていて学業も優秀、女友達も多かったしグループの中心にいるような子ではあったけれど、イジメをしていたというのは初耳だ。少なくとも高校のときにそういう噂を聞いた覚えはない。万引きや男関係といった僕の知らない一面が明かされてきて、魅力的な引力を持つ彼女への幻想が徐々に変わってきたというか、複雑すぎる女の子の扱いって僕の手に負えるものではないなあとつくづく思う。あれこれ悶々と考え込んでいたものだから、「――なあ」という隣の声にしばらく気が付くことができなかった。


「なあ、聞いてんの?」

 貧乏ゆすりをピタリと止めてクニさんが僕に問いかけた。地面に轟くほどの低音ボイスを耳元で聴くと威圧感が倍増する。

「君って城西大の学生だろ。こっちのオケには入らなかったの」

「オーディションは受けましたよ。でも落ちちゃって……」

「じゃあなんで外大に来たの」

「なんでって……」手を拳にして口に当て、しばらく考え込んだ。「……ここなら来てもいいって言われたので、それだけです」


 ハン、とクニさんは鼻で笑った。冗談めかしたわけでもないし、面白いことを口にしたわけでもないのだが、この笑いのツボは何だったのだろう。周りの酸素を吸いつくしてしまうような態度がクニさんにはあって、馬鹿にされたような気分になるというか、惨めな気分を味わうというか、クニさんとの会話がどうにも苦手だ。クニさんの組んでいる足のつま先がまた細かく動き出して、「揺すんの止めや、気になんねん」とタダさんから注意されていた。


 ホールが暗くなって演奏が始まった。オープニングである、ベートーベンの「コリオラン序曲」が始まる。城西大らしい、しっかりとした安定のある響きにどっぷり浸かる。演奏が終わってホールが明るくなり、次はいよいよショスタコーヴィチ交響曲第七番「レニングラード」だ。


 バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバス、と弦楽器が続き、その後に木管、金管がステージに上がる。三管編成の管楽器と別動隊組の金管が脇に控えて、通常の倍近くの管楽器がずらりと揃う。金色の楽器にステージのライトが跳ね返り、ゴールド一色に輝く舞台は豪華絢爛だ。打楽器にピアノ、ハープなんて二台もあった。美華の姿は譜面台と管楽器に埋もれてほとんど見えない。「弦楽器は五……六プルやて? 贅沢やのお」と、タダさんの羨ましがる声が横から聞こえた。百人近い編成は音がなくとも息遣いの迫力がこちらにまで届いてくるようだ。最後に出てきた指揮者、あれが例の美華の彼氏だろうか。遠目で分からないが姿勢正しく顔立ちも良さそうだ。

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