3・変人たちの集う夜(16)
忘れることのないこの声に、僕の心臓が大きく波打つ。そうだ、すっかり失念していたが、ここへ来たら出会う可能性は否が応でもあったのだ。――切立美華、過去の栄光となる僕の元カノだ。
こういうときに堂々とした振舞いを見せつけることができれば僕の株も上がるのだろうけど、不意に遭遇した元カノ砲に気弱な僕では対処できるはずもなく、「や、やあ、美華、久しぶり……」とブルブル震える声色を隠せぬまま美華と対峙した。
美華は観客から団員へ贈られた花束や菓子などをパートごとに仕分けする、差し入れ受付嬢をしていた。
「アル、城西外大オケに入ったんやってなあ、扇田くんから聞いたで」と、メッセージカードとペンを背広の男性に渡す美華は、目元の黒い縁取りと頬の艶やかさが透明な肌から浮き上がるほどに強調されていて、色の塗られていない唇とのバランスが若干気にはなるものの、それでもやっぱり人目を惹く愛らしさで、黒のロングワンピースが細い体によく似合っていた。高校のときと変わらぬショートボブの髪は少しだけ明るめになっている。「わざわざ来てくれてありがとう」とニッコリすると、手前の背広の男性が自分への挨拶と勘違いしたのか、釣られて口許をゆるりと緩めた。
「えっと……み、美華はレニングラードのセカンドだっけ?」
「うん、オープニングとかアシスタントにはなりたくなかったからな。メンバーになれるように練習めっちゃ頑張ったん」
扇田から耳にした、座を射止めるためのお付き合い、というゴシップネタが脳裏を飛び交い、すぐさまそれを頭から摘まみだした。
「外大は何演奏するん?」
チャイ四だよ、というと、へえすごいと社交辞令の感想で返された。演奏時間一時間半にも及ぶ大曲レニングラードに比べたら、天下のチャイコフスキーへの反応も所詮はこんなもんか。「白鳥の湖」や「胡桃割り人形」のような巷で人気のある曲からも分かるように、チャイコフスキーは自身の内面の心の動きを曲へ練り上げるのを得意としているのだが、対してショスタコーヴィチは国の体制批判や革命を民衆へ晒し鼓舞させるような社会的リアリズムとして曲を作ったものが多く、曲調は重厚で圧を感じさせるものが多い。僕としては繊細でナイーブな感受性の持ち主であるチャイコフスキーの方が好みだけれど、エンタメ小説よりも分厚い哲学書を好むような堅物一辺倒な人には、重苦しいショスタコーヴィチの方が性に合ってるかも――
……なんて曲解釈は、今はどうでもいいのだ。動揺を押し隠そうとしていたら、いつの間にやら先日調べ上げた音楽の知識へ逃避行してしまった。はたと現世を思い出し、美華との会話に舞い戻る。僕の連れを気にする素振りをされたので、クニさん、タダさんを順に紹介していく。当然のごとく美華は色男タダさんに興味を引かれて――かと思いきや、意外にも視線を向けたのはその隣だった。
「……ミファ、やんな?」
「……美華、ちゃん?」
美女二人が寸時見つめ合う。パチパチ、と美華がニ、三瞬きをした。
「わ、やっぱりそうや、ミファやんか! 髪型変わってもうたから、パッと見がすぐに分からんかったけど。久しぶりやなあ、元気しとった?」
うん、と首を竦めるようにして、ミファは小さく頷いた。この状況を飲み込めなくて「美華を知ってたの?」と僕が尋ねると、ミファは再び顎を引いた。
「美華ちゃんな、小学校のときのお友だちやってん……」
「そう、うちら、めっちゃ仲良うしとったよなあ」と、メッセージカードをプレゼントにテープで貼り付けながら美華が言った。
「同級生だったってこと?」
「うん、三年から六年までクラスが同じやってな、小学校のときはよう遊んどったん。中学では離れてもうたけどな」
「へえ」
六年のときといえば確か、ミファが友だちグループのリーダーからイジメを受けたときじゃないか。忘れているのか、それとも無意識に隠そうとしているのか、美華はイジメの話題に全く触れようとはしない。
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