3・変人たちの集う夜(12)

 マンションに着いたのは深夜を過ぎていた。さすがにおじさんも寝ているだろうと、そろりと玄関を開けて電気も付けずに忍び足で廊下を行く。おかえりという声と廊下の明かりが同時にあって、「遅うなったんやな」とおじさんが部屋から出てきた。


「あ……はい、今まで友だちと喋ってて。お風呂入ります」

 ああ、ちょっと待って、とおじさんが部屋に戻った。何かの本を手にしてこちらに来る。

「これな、本屋さんに寄ることあったから探してみたんや。今度のサマコン、ミヨーの曲やるんやろ? 丁度ええなと思ってな」


 表裏に引っ繰り返しながら見せてきたその本は、表紙にミヨーの写真が貼られていて、中を捲ると彼の生涯や作品についての説明が詳しく述べられていた。

「すげ……ありがとうございます、後で読んでみます」とお礼をすると、おじさんは嬉しそうな皺を目尻に作った。

「そや、七月の第二週の日曜が俺らの定演やけど、亜琉も来るか? ドヴォルザークのチェロ協奏曲や」


 協奏曲は外大オケで演奏したくてもできないものだ。ソリストを呼ぶようなお金もないし、ソロをできるような人材もないし――いや、クニさんならできるかもしれないけれど、それに合わせる技術力が外大オケにはないのである。おじさんの前回の演奏会で披露したサン・サーンスのピアノ協奏曲は、さすがプロのピアニストというか、そこら中で小さな音符がチカチカと煌めくような心地いいフレーズがまだ耳に余韻として残っていて、「あ、行きたいです」と即座にチケットを申し込んだ。


 そか、分かった、というおじさんの顔の皺がさらに増える。チケットを取ってくるからと部屋に戻った。僕は冷蔵庫にあったペットボトルのお茶を出して口に含み、ミファの作った楽譜を取り出して、整然と並んだ音符を眺める。自分のための音楽も楽しいけれど、人のための音楽で何かをするのも嬉しいものだ。そういや吹奏楽部の演奏会に両親を初めて呼んだとき、開演三十分前には父が最前列で待機していて恥ずかしい思いをしたっけか……おじさんの皺の増え方を目にしたら、そんな昔のことがふと思い起こされた。


 おじさんは父じゃない、けれど音楽を楽しむ人だ。今の僕と同じように。


「おじさん、僕のサマコンも来ますか」

 いそいそとチケットを持ってきたおじさんに、何気なく、さり気なく言ったつもりだったけど、まるで宝くじの一等でも当たったかのようにおじさんの目がまん丸になった。

「……ホンマに? ええんか?」


 額の筋肉が動くほどに瞼がぐっと上げられて、いったいどこまで目が開くんだろうと興味が湧く。あまりの驚きようについ吹き出した。

「うん、僕のチケットがまだ余ってるから。机にしまってあるし、あとでテーブルに置いておきます」


 そっかそっか、サンキュウベリベリマッチョ、とおじさんは嬉しそうに返事する。冗談かどうかは知れないが、カメラを持っていこうかなあと呟いていて、小学生の運動会じゃないんだからとその提案を却下した。

「亜琉、チケットあともう一枚追加な。お母さんの分や」


「なんで?」母が関係する理由が分からなくて、僕は首を捻った。「――秋田からわざわざ来るわけないじゃないですか」

「せっかくの息子の晴れ舞台やし、電話でもLINEでもええからちゃんと訊いてあげんと」

「来るわけないですよ」と言いながらリビングの椅子に座ってお茶を飲む。

「なんでそう決めつけるんや」

「お金掛かるじゃないですか。それに父が死んでから一度も演奏会に来てくれてないんですよ。僕よりも仕事と実家が大事だろうし、今更母に訊いたって」


「コラ」とおじさんは僕の言葉を軽く封じた。「こっちに来る前のお母さんの様子をちゃんと見とったか? 秋田なんて遠くに引っ越してもて、なんでやねんって思っとったかもしれんけど、あの人はあの人なりに俺の弟が死んでからえらい苦労しとったんや。家のために働かなあかんし、おばあちゃんとの反りもあわへん。三回忌のときのあの人の顔、頬がゲッソリこけとって、えらいやつれとってビックリしたわ。相当悩んで、悩んで、それで転職と引っ越し決めたんやろ。今の給料もそんなにいいはずあれへんのに、毎月ちゃんと仕送り三万もしてくれとるんやで。こっちはいらんって言っとるのにな。お母さんのことをそんな風に悪く言ったらアカンで」


「悪く言うつもりなんてないですよ。サブのセカンドのためにわざわざ遠くから来てもらわなくてもいいかなあって思ってるだけです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る