3・変人たちの集う夜(10)

 大学から単車で十分ほど走らせたところに千里中央駅がある。改札で待っていると、バス停から降りてきたミファが小走りで来た。

「もう終電やな、早よ行こか」と、ミファは前髪を細い手でかき上げた。ゴールドの指輪が人差し指に黄色い光を与えている。最終電車は人もまばらで余裕をもって二人で座った。


 窓の外に消えていくビルの光を眺めながら、うつらうつらと今日のことを考える。太陽の光を浴びると地下鉄の電車は溶けてしまうという、ありえない都市伝説をふと思い出した。幼いときに兄から騙されてずっと信じていたものだ。車内で頭を上げているのは僕だけで、乗客のほとんどはスマホで顔を伏せていて、溶けるかもしれない電車を気にする者など誰一人としていなかった。目の前の男性の持っているスマホケースに柴犬の写真が大きく貼られていて、あれは男性の趣味なのか、それとも彼女に無理やり持たされたのだろうかなどと、どうでもいい他人の人生をぼんやり推測していたら、「生きとるん?」とミファが首を軽く傾げて僕の顔を覗き込んできた。


「え? 生きてんにきまってんじゃん」

「あ、起きとんの、の間違いやった」とミファは白い歯を見せた。「生きとってよかった。静かすぎてここにおらん気がしたん」


 理解不能な関西人のギャグだったのだろうか、こういうときの返し方がすこぶる苦手で、ツッコミに戸惑って「なんで、ずっと生きてるよ」と素で応えた。

「そっかなあ、アルはずっとここにおらん気がする。大きな水槽に泳いでた熱帯魚が、岩場かどっかにいなくなってもうたような、そんな感じ」


 どうやらギャグではなかったらしい、というか、詩的なものの例え方がいつものミファらしくなくて奇妙に思えた。

「なんだよそれ、僕は誰かに飼われているペットってこと?」

「まさか。例えばって話やん。アルってな、ここにいたらアカンって空気をいつも持っとる気がするから」

「……そんなことないよ……」などと答えつつ、僕と外大オケとの微妙な距離感がバレてしまった気がして、後ろめたさからつい視線を窓に逸らした。


「うちにもそれは分かるんよ。うちだってみんなと壁を感じんねん。『日本人』と『在日コリアン』って見えへん壁な。ヘイトみたいな差別用語は日常茶飯事やし、そこそこ仲ようなれる子はいても、マイノリティーで可哀そうやからとか、違う存在やからとか、そういう意識が普段の何気ない仕草なんかで分かってまうん。韓国に行ったら行ったで、日本語しか喋れん韓国人やって親戚中から白い目や。うちはいったいどこに流れればいいんやろうって悩んでもうてるときがある。それを解決するために外大の朝鮮語専攻へ入ったんやけどな」


 ミファは父親が韓国釜山出身で、在日コリアンだった母と結婚したらしい。入団して一年経ったが、ミファの身の上話を訊くのは初めてだっだ。在日コリアンのことを感じさせるような余所余所しい雰囲気が外大オケには全くなくって、ミファがそういう存在であることすら忘れていたのだ。でもそれは下界から遠く離れた外大特有のものであるに過ぎない。一旦そこを離れれば、偏見ヘイトはそこら中に――もちろん僕の生活圏内にも、ありとあらゆるところに転がっている。


 こんなに身近にいる子なのに、ミファのことも、在日コリアンのことも、僕は全然知ろうとしていなかった。


「小学校のときって友だちグループができるやろ? こういう性格しとるから、うちは騒いどるグループにいてめっちゃ楽しかった。グループの中心にいた子から『ミファっていう名前が可愛い』って気に入られとったからな。でもな、その子がコンビニでお菓子を万引きしとるとこ見てもうて、居ても立ってもいられんくて注意したん。そんなんしたらアカンでって。そしたらな、次の日からその子も、周りにいた子も、今まで仲良うしてくれてた子たちみんなから手のひら返したように総スカンや。机にはチョウセンジンって書かれるしな、酷いイジメが始まった。そんとき分かったんや。あの子らはうちが友だちとか仲間やのうて、在日コリアンっていう『特別な子』を可愛がっとっただけなんやって。うちを助けてくれる子が誰もえんくなって、あんとき注意せんとけば良かったんかなってわんわん泣いた。運が良かったのはそれが六年の最後の方やったから、イジメはそれ以上酷くならんとすぐに終わったけど」


 膝の上に置いていたピンク色のトートバッグを、ミファは抱きしめるように手元へ引き寄せた。彼女の作ったミヨーの楽譜が鞄の中から見えている。

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