3・変人たちの集う夜(8)

 トュッティが終わって廊下に出ると、スタンドに立て掛けられたファゴットがそのまま置きっぱなしになっていた。ミファの楽器だ。楽器を片付けないままどこへ行ってしまったのだろう。留学生会館や学生寮が近くにあるため、サークルボックスでの音出しの時間は二十一時までと決められている。囂々ごうごうと海鳴りのような雨音が廊下に鈍く響いていて、この豪雨の中を単車で走るのも危険だし、雨が落ち着くまで居残り練習をすることにした。扇田や他の団員たちはぞろぞろ帰り、廊下に残っているのはトロンボーンとホルン、それに間山だけだ。


 間山は廊下の隅に譜面台を立てガンガン音を出している。練習するのはタダさんから注意されたソロの部分だ。テンポを変え、リズムを変え、スラーにしたりスタッカートで吹いたりして、ソロのフレーズに指を慣らしているようだ。他人から注意される前にこれだけの集中力を見せればいいものを、あいつの練習嫌いにはほとほと困ったものである。まあ、キツく言われて凹むほどの柔な性格でもないし、却って負けず嫌いに火が付く奴だから、放っておいてもなんとかしてはくれるだろう。


 三十分ほど時間が経つと雨の勢いも落ちてきた。楽器を片付け桶男の扉を開けて木セク部屋で休憩する。パイプ椅子に座り、長テーブルに置いてある漫画本を手に取った。粟崎さんにお薦めされている「百歌ひゃっか祈祷師きとうし」だ。北寄きたよりススムの描いたこの作品は、なんとかいう人気の俳優によって実写映画にもなっていたはずで、タツキだかタエだか話の内容は知らないけれど、パラパラ捲ると綺麗な絵柄とアクションの迫力に目を惹かれて少しだけ読み進めた。気が付けば廊下で鳴っていた音がなくなっていて、人の気配もしなくなり、小雨の音の漂う海に僕一人が埋没していた。サークルボックスの施錠時間である二十二時まで、あと二十分。いつまでたってもミファが帰ってこないので、ファゴットとスタンドと楽器ケースを木セク部屋へ移動させようと廊下に出た。


 と同時にトュッティ部屋の扉が開いた。ソバカス須々木女史とビオラの女の子たちだ。

「なんや、まだおんの」と、銀縁眼鏡がこちらを見た。

「須々木さんたちもまだいたんですか」

「トゥッティ部屋でつい話し込んでもうてな。誰もおらんくなったし、部屋の鍵をお願いしてもええか」

 分かりました、と返事をした。


「アルくんは帰らへんの」

「もう帰りますよ。その前にミファのファゴットをこっちへ移動させておこうかなって。盗難も怖いから」

 驚きあきれるように女史の目が丸くなった。

「あの子、大事な楽器を放っぽり出して帰ったんか。信じられんな。タダに叱られたんのがそんなに堪えたんか」

「さあ……そういう子でもないはずですけど」

「いくらなんでもトゥッティ中のお喋りはアカンわなあ。うちだって注意したくもなんで。あの子って、ここに入ったときから皆にチヤホヤされすぎてんで、ちょっとばかし調子ぶってたんやないか」

「…………」


 じゃあ帰るなあ、とビオラ集団はぞろぞろ階段を降りていった。調子ぶってる、か……そうかもしれないが、なんとも厳しいご意見だ。女史の言葉が棘を持つボールとなって頭の中を転げまわり、痛みの跡を赤く点々と残していく。自分のことでないにしろ、バツの悪いことを耳にしたなあとモヤモヤした思いに駆られながら、えっちらおっちら重いファゴットを運び終えると、部屋の扉がゆっくり開いた。


 ミファだ。やっとミファが帰って来た。

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