3・変人たちの集う夜(5)

 指揮者タダさんが壇上に上がる。お願いしますと指揮棒を挙げ、下へ降ろされた。

 初見大会では暴れ放題だった牛の歌も、ふた月も練習すればそれ相応の形になり、崩壊していた建物には柱が立ち、壁が塞がれ瓶が置かれ酒場の体を為してくる。技術力の乏しい弦楽器軍団は、コンマス・クニさんとビオラ須々木女史の剛腕な統率力とたゆまぬ訓練により、弓の乱れも徐々に薄まり一体感も生まれてきた。


「うん、そうそう……そこのビオラ、もうちょっと跳ねるようにして。バイオリンだけ……うん、じゃ、みんなで」

 管と弦、打楽器があってこそのオーケストラだが、やはり主役は一糸乱れぬ弦楽器だ。タダさんの指揮棒がクニさんの弓と見えない糸で繋がって、その糸に操られたように上下する弦楽器の弓は、さながら指揮者に操られたマリオネットのようでもある。


「んーちゃうちゃう、あれやな、タ・ターンタ、タ・ターンタって、シンコペーションの強弱や」と、タダさんは手を叩いた。「みんなで揃えようって意識しすぎて二拍子っていう枠に囚われてんな。拍っちゅうのはあくまでも曲を作る型ってだけや。拍の中にリズムの表情をちゃんと付けてやらんと。ダンスやな、ダンス。ミヨーのおっさんが影響受けたっつうタンゴの音楽とリオのサンバ。ダンスするように、それを意識しながら演奏して……そう、ええ感じやんか」


 タダさんは奏者に寄り添うような音作りをする人で、音楽の波を直感と俯瞰で捉える力を備えていて、振りの形も点がはっきりしているから奏者側もやりやすい。幼稚園のころからバイオリンを習っていた経験の長さはクニさんとそれほど変わらず、クニさんがいなければ間違いなくコンマスはタダさんだった。楽器の実力があって、音楽の知識もあって、人当たりも良くて、しかもイケメンで――これはまあ関係ないけど、とにかく神様から二物どころか三物、四物も与えられたタダさんの能力は入団当初からOB・OG・先輩たちに高く買われており、二回生としては異例の学生指揮者に抜擢された人物でもある。指揮を振って今年で二年目、経験はまだまだ未熟ながらも曲への理解を惜しむことなく努力していて、常日頃から時間があればスコアを眺め、いかに指揮を魅せようかと切磋琢磨で研究している、やっかみ抜きですごいと思える人なのだ。


 じゃあVからやってみて、と指揮棒を振り始めたタダさんは、しばらくしてそれを降ろした。

「ここなあ、どうするかなあ……クニ、ちょっとバイオリン貸して」


 タダさんはコンマス・クニさんのバイオリンを借り、肩に構え、曲のフレーズをつらつら弾き始めた。同じ楽器を使っているはずなのに、クニさんとは全く別物の繊細で軽やかな音だ。しかしまあ、タダさんがバイオリンを奏でると、その姿はまるで湖の畔に寝そべって妖精たちに愛を語る美男子ナルキッソスだ。指揮も出来て、バイオリンも出来て、顔も良くて、これで夢中にならない女の子はいないんじゃないか。僕としては男のプライドもあるわけで、やっかみをいくら引っこ抜いても再びニョキニョキ生えるというか、不公平な神様をついつい恨んでしまう。


「ここの旋律、ソロに変えてる編曲もあってやなあ、ええなあって思っとったんや。クニのソロにしたいんやけどどやろか。クニ、お願い出来るか?」

「フン、当たり前だ」


 クニさんは僕以上にプライドの高い人だ。今の演奏を聴いて悔しくないわけがない。タダさんに負けじとばかり、返してもらったバイオリンを肩に構えて早速それを弾き鳴らす。たった十数小節だというのに、その美しさといったらどう表現すればいいんだろう……! クニさんの屈強な体から発せられる煮立つほどのエネルギーが腕へ、指へと伝わって、驚くほど繊細で華麗な音に変わりゆく。貴婦人の切ない愛が艶やかなバイオリンの音色に歌われて、酒がその場に振舞われたように僕たちみんながひとときの宴に酔いしれた。腕を組み目を閉じて聴いていたタダさんは満足そうに頷いた。


「ええやんけ、クニ、惚れてまうわ」

「……まあこんなもんだろ」と、平然を装いながらもクニさんの耳が赤くなる。意外とおだてに弱いらしい。

「よっしゃ、じゃあこれでいこか。……おおい、ペット、Jのファンファーレやってみて」

 ペットといってもオケで猫や犬を飼っているわけではない。丹生さんたちトランペットが意気揚々と歌を鳴らす。

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