3・変人たちの集う夜(1)
季節は梅雨に入り天気のぐずつく日も増えてきた。薄鼠色の水彩で伸ばしたような雲が空いっぱいに蓋をしていて、そのくせ気温は二十八度まであるもんだから、Tシャツの背中と脇に黒い汗染みができた。電気代節約のため蛍光灯が消され、冷房の効きも悪い食堂で、僕はいつものように生協カレーを食べながら、ルーの薄さと部屋の暗さと今日の練習のことを考えていた。
「おう、アル、旨そうなもん食っとるやんか」と極薄カレーを褒めてくれるのは、おなじみ青髭・扇田だ。
「キヨトの方が旨そうじゃん」と、目の前に置かれた友人の牛肉定食を覗き込んだ。言い忘れていたが、扇田にはキリストさまもビックリの「
「今日はどうしても牛肉が食べたくてな、お祝いっつーか、ちょっとばかりの贅沢や」
扇田はいただきますと手をすり合わせた。国産牛肉薄切れを五枚も焼いた牛肉定食はなんとなんと驚きの六八十円、僕みたいな貧乏学生には一生手に届かない超高級メニューである。
「クッソ、なんでそんないいもん食ってんだよ、バイト代でも入ったか? 僕にも一口くれ」と伸ばした僕の箸を手でさっとあしらって、「やるわけあらへん」と扇田は向こう側が透けるほどの薄い牛肉を大きな口にパクリと入れた。顎をこちらへ突き出して「旨いのお」と、これ見よがしに幸せそうな顔をする。目の前にあるまばらな髭は長いもので一センチ近くもあり、プツンプツンとハサミで切り揃えたい気持ちをグッと堪える。
「今日は外大で練習なんか」
「うん、木曜日はトゥッティだから。次の講義が終わったら行くつもりだよ」
「なんの曲やるんやったっけ、馬かロバか飛行機か……」
「全然違うじゃん、『屋根の上の牛』ってやつ」
せやせや、と扇田は頷きながらぐふふと笑って二枚目の牛肉を食べた。
「ミファさんももちろん出てるんやんな」
「うん? もちろんそうだけど」
去年の定演での一目惚れ以来、こいつは何かにつけてはミファのことを訊いてくる。講義の前や休憩時間にはスマホに保存されたミファの写真を眺めているときもあって、さながら推しの追っかけをしているアイドルオタクだ。真夏の屋外に残されたソフトクリームのようにとろけていく扇田の顔があまりにもヤバすぎて、ミファには絶対に近づけてはならんと心に強く思っている。
「えと……そういや城西大は今度のサマコンで何するんだっけ」と、危険回避のためさり気なくミファの話題から逸れておいた。
「おう、すんごいやつをやったるで。ショスタコーヴィチの七番や。レニングラードっちゅうの」
おお、と大げさに追随したが、実はショスタコーヴィチのことはよく知らない。知ったかぶりだけ見せておき、派手な曲だろうと見当つける。ショクタコーヴィチの交響楽は派手だと思っておけば、まず間違いないのだから。後でちゃんと検索しておこう。
「美華ちゃんも演奏すんで。レニングラードのセカンドに大抜擢や」
久々の美華の話題にすごいじゃんと素直に答えた。学部も学舎も違うから大学では会うこともなく、元カノだった記憶も薄れ、今となっては遠い国のお姫さま状態だ。
「でな、その美華ちゃんのことなんやけど」と、扇田は三枚目の牛肉に箸をつける。一番薄くて小さいやつで、あまり美味しそうには見えない肉だ。「オケん中で変な憶測が流れとる。あの子、最近男と付き合うようになったんやけど、その相手がなんと三回生の指揮者や。美華ちゃん見た目がごっつ可愛いからな、指揮者も二つ返事でオッケーしたんやって」
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