間奏曲・ラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」(2)
男の人は両眉を引き上げて、「よう知っとんな。ラヴェルやったら展覧会の絵とかボレロってのが定番なんやけど。クラシック好いとんの?」
「あ、いえ、吹奏楽に入ってます。中学校の。ちょうど今、その曲を練習してるから」
「ほぉ、あんな難しい曲をか。大したもんや。亜琉くん、やったかな……楽器は?」
「クラリネットです。一応はパートリーダーもやってます」
「へえ、ええやんか。おっちゃんもな、アマチュアの市民オーケストラに入っとんや」
そう言っておじさんは父に白い花を手向けた。横顔を見て思い出した、父の兄の征樹おじさんだ。馴染みはないけれど里帰りで何度か目にしたことはある。征樹おじさんは大阪にある製造工場の技術職として働きながら、大学から始めたチェロを趣味で続けているという。平凡で純粋なサラリーマンだった父とは違う、芸術という衣を纏っているような飄々とした雰囲気に、僕の視線がしばしの間囚われた。
「亡き王女っつっても、泣いとるわけでもないし、死んだ王女のために作ったわけでもないんやで。王女様のモデルは、スペインの王女マルガリータ……ああスマンな、お父さんの前でこんな時に音楽の話なんて聞きとないわな」
音楽専門家のうんちく話に興味をそそられたのと、父の思い出話に疲れていたこともあり、いえ、お願いしますと僕は首を振った。
「そう? やったらちょっとだけ。ディエゴ・ベラスケスっていう画家さん、知っとる? 知らんわな、そりゃ。十七世紀のスペインの画家さんなんやけど、その人が描いためっちゃ幼い王女の絵がルーブル美術館に飾られとんや。この曲はそれにインスピレーションを受けた曲なんやで。可愛い王女さんでなあ、この曲聴いとると――ほらほら、ここの旋律、木管から弦へ流れるような旋律の受け渡し、グッと心が捕まれるやろ……王女様の持っとる高貴さとか、切なさとか可憐さとか儚さとか、そういう繊細なイメージが目の前にババーンと浮かぶような気がせえへん?」
ババーンという大げさな擬音語と共に、血管が何本か浮いたおじさんの右手も開かれた。ピアノの鍵盤がオクターブ余裕で届きそうなほどの大きな掌だ。
「――ちなみにな、……あ、まだ話しええか? おっちゃん喋ってばっかでスマンな。パヴァーヌっちゅうのは、十六世紀のヨーロッパの貴族たちに流行っとった、のぉんびりしたダンスのことなんやで。まあこんな情報、ウィキ見れば済むもんやけどな」
「死んだ王女様のお葬式の曲じゃないんですか」
「せや、亡き王女っつっても、葬送曲やのうて、王女様がちょこまか踊る舞踏音楽っつうところやな」
おじさんの情報は意外に面白くて、ほんの少しだけ父のことが頭から離れたのは有難かった。代わりに想像されたのは拙い動きで手足を動かす王女様だ。幼稚で、可愛くって、彼女を見つめる周囲の親や貴族たちは、揃って口を綻ばしている、そんな穏やかで優しい情景。裏事情を知ってしまうと、葬式には不自然な曲のようにも感じられる。
「経緯を考えると、この場にこの曲はなんだかなって気がしますね」
どっちでもええんちゃう? とおじさんの頬が少しだけ緩んだ。
「生きていくっちゅうのは一人舞台とおんなじや。観客の誰もえん静かな舞台で、独りで踊っているようなもんやからな。こいつ――亜琉くんのお父さんの最後の舞台がここって思えば、この曲も合っとるんやないかな。人生最後のダンスの見納めが、このお葬式なんやから」
人生最後のダンスという風変わりなものの例えが、ふいに、どうしてかは分からないけど、僕の心の何かに触れた。心臓がぎゅうっと絞られて、絞った水が目から溢れた。父が亡くなってからこの瞬間まで涙を流すことはなかったのだ。涙を見せるのが恥ずかしいのと、意図的ではないとはいえそうさせられたのが悔しいのと、素直に涙を流すことのなかったほんの少しの罪悪感が頭の中でぐちゃぐちゃに暴れ出して、僕は何も言わずにおじさんと父の棺からすぐに離れた。棺は閉じられて父の眠る顔を見たのはそれが最後だったし、征樹おじさんと話すこともそれ以上はなかった。
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