2・酒場にて(5)
悪の帝王のごとくクニさんの眼光が丹生さんの力量を測るように舐めまわし、口角を歪ませた。
「無謀な抵抗を後悔するなよ。負けたら木管金管、両者ともに、ロングトーン二十本をセクション練習に上乗せだ」
「おう、ええで。望むところや」と、丹生さんは顎に手を当て余裕しゃくしゃくの様子を見せる。「その代わりといってはなんや、こっちが勝ったら次の定演はマーラーの巨人にしてもらう。それが俺ら金管からの条件や」
おおっと金管軍団がどよめいた。マーラーの巨人とは、交響曲第一番のことだ。ドラマティックで壮大な世界が無限に広がる曲で、金管奏者が憧れる夢の宝島のようなものである。卒業までにはこの曲を演奏したい、いや絶対に演奏してやると、丹生さんを始めとする金管連中がずっと訴えていたものだ。裏交渉をベストタイミングで持ち出す辺り、丹生さんのしたたかさと聡明さを窺い知れる。
クニさんは片眉をピクリと上げた。
「マーラー? 俺としてはベートーベンの運命を推すつもりだが」と口に出す。
「おおう……クニ、それはまたベタやなあ」
「ベタでもなんでもクソでもいい。やりたいものはやりたいだけだ」
「アッカーン! 次はプロコのロミジュリや! それだけは譲れへん」と茶々を入れたのはミファだ。あまりの大声に反応したのか、寝ていたはずの粟崎さんがむくりと頭を持ち上げて、「ラフマニノフ、二番、二番……」と寝言のように口にして再び夢へと舞い戻った。
「オモロそうなことになっとるやんけ」と、あまりの騒ぎにタダさんと女史が弦楽器数人を引き連れてこちらへ来た。「こんなところで選曲会議か? よっしゃ、冬の定演は第九に決まりやな」
「タダはこっちに来るな、お前には訊いてない。というか、第九なんて合唱はどうすんだよ。無理に決まってるだろ」
「ええやん、言うだけやったらタダやんか」と真面目な顔でタダさんが答えた。
ショスタコーヴィチ、ニールセン、ブラームス、ドボルザーク……あれやらこれやら好き勝手に曲が提案されてきて、この場一帯に曲決め議論が湧きだした。腕相撲三番勝負はどこへやら、音楽のために争う僕たちは、音楽によって再び平和を取り戻すのだ。
オーボエ加田谷さんがリヒャルト・シュトラウスを提案して、そんなん無理やろとミファが白い歯を覗かせていた。彼女の笑顔はいつもその場を明るく照らす。イケメン談議でニッコリ笑った、その視線の先にあったものに僕は気が付いていた。
弦楽器の中心にいた指揮者タダさんだ。
そういやタダさんの浮いた話も、これといって耳にしたことがない。あれほどの色男であるというのに。
というか、色男と美女なんて、大概はお互い意識し合うよね――?
場に興じるミファを眺め、男女の交際なんて疎遠の話に僕は小さく頭を振った。
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