2・酒場にて(4)

「クニ、ここで会ったが百曲目。初見大会の恨みをこの場で晴らしたる!」

「なんだよ、恨みって。そんなに大声出さなくてもいいよ。さっきもだけど、粟さんの馬鹿デカい声はしっかりと耳に届いていたから。俺の意見に不満があるみたいだけど、しっかり練習したらいいだけの話じゃない? 文句言えるだけの練習してた? そっちは経験者だらけなんだから、ちゃんと吹けない方がどうかしてるよ。異を唱えるならいくらでもどうぞ」


 そりゃそうだ。あまりの正論に返す言葉も浮かばない。練習よりも漫画の新刊を優先した粟崎さんに文句を言えるような筋合いはないのだ。それでも負けじとアルコールの詰まった脳でせっせと考えたらしきものが「勝負や! 腕を出せい!」という意味不明な挑戦状だった。ビールの残ったコップを置き、シャツの袖をまくっている。


「こんなところで献血すんの?」

「アホか、腕相撲や」

 腕相撲。どうしてここで、腕相撲。

「まさかその細い腕で勝つつもり?」

「当たり前や! うちの腕は並の男よりも強いんよ。小学校のときは子供会で優勝や。三本勝負で、うちが勝ったらクニが謝る、負けたら――せやな、木管セクションでロングトーン十本や」


 どういうわけか無関係の僕たちまで巻き添えにされ、ちょっと落ち着けよと間山が止める。そんな制止も空しく、「それでいいなら受けて立とう」とクニさんも白シャツの袖を肩までまくり始めた。血管が浮かび上がり筋骨たくましいその腕は、ロダンの彫刻を思わせるほどの芸術的な上腕二頭筋をしていて、腕の太さも粟崎さんの倍はありそうだ。象に歯向かう蟻というか、こんなの絶対に勝てるわけがないし、下手すれば怪我をする。酔っ払い粟崎さんは本気で勝つ気つもりなのか、それともこの状況をまともに把握できていないのか、目を座らせてクククと不敵な笑みを浮かばせていた。誰か止めてくださいと周囲に助けを求めると、騒ぎに気付いた金管軍団がわらわらと寄ってきて、粟さんやったれとエールを送って火に油を注ぎこむ。年がら年中お祭り騒ぎの金管に少しでも期待したのが馬鹿だった。二人はテーブルのコップや皿を脇にどけ、「いざ勝負」と手を組んだ。いつの間にやら審判役を買って出たのはトランペットの丹生さんだ。


「レディー……GO!」という掛け声。丹生さんの手が二人の腕からさっと離れる。

 と共に、粟崎さんの腕がガクンと折れた。


 瞬殺だ。


 粟崎さんは腕ごとテーブルに倒されて、皿とコップと二十一粒の枝豆が派手な音と共に揺れた。粟崎さんはそのまま起き上がろうとせず、テーブルに上半身ごと突っ伏している。不安に駆られてミファが肩を揺すると、なんとまあ、目を閉じてすうすうと規則的な息が鼻から漏れているではないか。この状況で寝てしまう粟崎さんの酒乱ぶり――ビール一杯だけど――に皆が失笑した。三本勝負はクニさんの不戦勝となった。


「これで勝負はついたな。木管には約束をしっかりと果たしてもらうぞ」という低音ボイスの脅し文句に木セク全員が震え上がった。全体責任というのはおかしいじゃないか、それはただの言いがかりだと間山をはじめ木セクのみんなで必死に抵抗するものの、クニさんは聞く耳を持とうとしない。木管の名誉のために付しておくと、本気で練習を拒んでいるのは間山だけで、僕たち木管組は赤の他人から押し付けられる強制労働をとことん毛嫌いしているだけなのだ。窮地に陥った木管を救うべく立ちあがってくれたのが、なんと審判役の丹生さんだった。


「クニ、勝負はまだ二試合残ってんで。俺が勝負を受けて立つ」

 クニさんの睨みに怯むことなく太い眉は闘志あふれる表情を際立たせて、顎に掛かるほどの揉み上げはいつも以上に伸びている。これほどまでに凛々しい丹生さんの眉と揉み上げを僕は見たことがなかった。


「ほほう、ニューヤン殿のお出ましか」ニューヤンとは丹生さんのあだ名だ。クニさんが言うとちょっと可愛い。「フッ……こちらの方が少しは手ごたえがありそうだな」

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