2・酒場にて(3)

 ミファの恋愛論が急に飛び出し、枝豆が咀嚼される前に喉へ落ちて形そのまま胃に納まる。彼氏はいるのか、いないのか――? もう少しで訊きだせそうだと、磯部さんの話術テクニックに耳が引き寄せられて、ハラハラドキドキ期待が高まる。

「先輩もそういう人がいるんですかぁ?」


 枝豆から磯部さんへ視線を移したミファは、「んーどうかな」とニッコリ笑顔で言葉を濁した。こ、この反応はどう判断すればいいのだろうか? もうちょっと、もうちょい頼むぞ磯部さん、と意気込むあまり、指に力が入り過ぎて潰れた枝豆がポトリと皿に落ちた。


「先輩やったらカッコいい彼氏がいそうやけど」

「まさか、いるわけあれへん」というミファの返事にホッと胸を撫でおろし、いやそんなはずないだろう、単なる社交辞令に過ぎないと会話の裏を勘繰った。

「ほんとですかぁ? きっと先輩の望む理想論が高すぎなんですよぉ。可愛い女の子に振り回されんとか、情が移らんとか、そんな聖人君子みたいな人なんてこの世の中にはいませんって。怪しいなって気がしても相手を信じるしかないんですよねぇ。悲しいですけどぉ」と、僕たち男には耳が痛むほどの見解をズバリと述べて、磯部さんは二十一粒目の枝豆を取り出した。


「明日香ちゃんはどうなん?」

「あ、今はいませんけどぉ、高校のときの彼氏がですねぇ、私の親友にも手を出していたんですよぉ……」

「わわ、それは大変だ」


 ミファの恋愛事情から少しずつ話題が逸れていき、皿に転んだ豆も増える。いや、今求めているのは磯部さんの彼氏のことじゃなくって、お願いだからミファの話に戻ってくれ、ついでに皿の枝豆も食ってくれという僕の願いも空しく――

「全くもってその通りだな。ちなみに俺も浮気なんてものはしない」


 超低音のチューバ声が木管の場に轟いて、廊下の方へみんなの顔が振り向いた。百八十センチの巨体がコップを手に廊下の柱へもたれ掛かっている。手から頭から、見えないけれど恐らくつま先に至るまで、クニさん全体がペンキでピンクに塗られているようだ。


「クニさん、なんでここにいるんすか」

「――いれは駄目なのか」

 間山の問いかけに、呂律の怪しい答えが返ってきた。かなりの酔いが回っているらしい。

「いいっすけど、弦楽器はあっちでしょ」

「トイレに立ったらタダに席を取られたんだよ。俺はあいつが気にくわん」と、クニさんの毒舌ぶりは指揮者にさえも一刀両断だ。先ほどまでクニさんの陣取っていた弦楽器女性集団の中心には、今はタダさんと須々木女史が仲良さげに座していた。イケメン指揮者タダさんは、須々木女史の大のお気に入りなのだ。


「タダさんていい人だと思いますけど。トゥッティ中に音外してもタダさんから怒られたことないし」

「怒らないのがいい人だとは限らん。というか音を外すことを自慢げに言うな。タダは胡散臭さを人当たりの良さで誤魔化してるだけだ。あいつからは裏の顔の匂いがする」


 すかさずミファが横やりを突いた。

「タダさんがイケメンやから嫌いなん?」

「そんなつまらん劣等感は、俺にはない」

「クニさんって意外に男前やもんなあ」

「……そういうもんでもない。『意外に』は余計だ」


 あらあら? と僕が感じたのは、クニさんのピンク色に深みが増したことだ。特に、耳。ピンクというより赤色だ。もしかすると褒めてくれたのがミファだから、とか……まさかとは思うが、堅物を絵に描いたようなクニさんであってもそんな感情があるのだろうか。クニさんだったらミファとは正反対の、もっとこう、静かで一歩引いた大和撫子のような女の子がタイプのような気もするけれど。枝豆の殻の山を一段、二段と積み上げながら、クニさんの好みのタイプを悶々考えていると、「待て待てい! クニィ!」という時代劇さながらの怒声がして、枝豆の殻の山が崩れ落ちた。声の主を確かめると、酔っ払い帝王の粟崎さんが憤怒の面持ちでクニさんを睨みつけている。

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