1・会議は踊る(14)

 わざとらしい咳払いにタダさんの片眉が凹み、色男の顔が形よく歪んだ。念のためにミファの言葉を訳しておくと、「楽しそうだったからこの曲を演奏したかった、自分にも参加させろ」ということである。驚くことでもなんでもない、ミファとはそういう女の子だ。間山のことが気に掛かり、二つ隣の友人をそっと窺うと、釈迦に見放されて糸を切られたカンダタのような面持ちで、奥歯を食いしばってこの状況に耐えていた。なんともまあ、気の毒なことだがこれも定めだ、ご愁傷様である。

「まあええけど、音量控えて邪魔せんようにな。それじゃあ演奏始めます」


 タダさんの指揮棒が降られて初合わせが始まった。テンポはやや遅めに、足並み揃えてドンチャン音をかき鳴らす。

「屋根の上の牛」は調がコロコロと変わる変則的な和音をしているが、メロディーが単純でノリもいいから遣りにくい曲ではない。曲を知っていればそれなりに弾きこなすことはできる。とはいえシャープやフラットといった臨時記号が楽譜中に転がっていて、それがメロディーラインからわざと外しているときもあるから、流れを理解できていないとすぐに曲から落っこちてしまう。粟崎さんは幾度となく指遣いを間違っていて、「自分の音が合ってるかどうかもよう分からん」とため息をついていた。


 あれほどこの曲を推していたはずの間山は、調子よく音を出していたのが最初の主題部分だけだった。残りはピアニッシモでバレないように吹いたりとか、吹き真似で誤魔化したりで、大事なソロの入る場所さえも見失っているようだった。


「あー間山くん、ソロ落ちてんやん」

「今ここや、ここ、Eの辺り。休符数えて……ああ、やっぱり落ちた」

「もう、全然できとらんやん」

「楽譜汚いなあ、こんなん読めんやん」


 間山の指が止まるたびにミファの説教がコソコソ小声で始まって、周りにもそれが聴こえるもんだから、「こらこらファゴット、声が喧しいねん。音量控えて言ったやろ」と指揮者の注意が何度か飛んできた。


 クラリネットもファゴットもこんな調子でまともな演奏どころではないが、他の管も、弦だって似たようなものだ。メロディーはすぐに切れ、曲を止めた回数は数知れず。弦のボーイングは乱れに乱れ、あり得ない場所で金管の音が掻き乱し、ドミノのように倒れる木管は多重和音をより奇々怪々なものにした。管の人数に比べて弦が少なすぎるもんだから、旋律が聴こえないのだ。酔っ払いたちが無秩序に踊る無法地帯のカーニバルは、暴走した牛に踏み潰され、野次馬たちに荒らされて、割れた酒瓶が散乱し、酒場の屋根には穴が開き、柱が倒され壁がすべり落ちていく。


 そして――とうとう世界は崩壊した。


 それでもなんとか強引に指揮を振り終えたタダさんは、荒れ果てて壊滅状態となった団員たちを前に、指揮棒を力なくだらりと降ろした。

「まあ、初めてやしこんなもんか……次は最後まで通せるように。ちゃんと練習しておいてな」と、敗北宣言して焼き野原になった戦場を後にする。任務遂行を為せなかった後悔の念で目には生気がすっかり失われ、肩を落とした敗戦の将は見るも哀れで物悲しい。いつもは温和なタダさんにさえ匙を投げられてしまった「屋根の上の牛」、果たして本当に仕上がるのだろうかと不安だけが胸によぎる。


「なるほど、よく分かったよ。これが君たちの目指す多様性というものか」

 コンマス・クニさんは、気力をなくした団員たちに怨嗟の声を吐き捨てた。

「てんでバラバラでユーモアだけは一人前だな。基本を忠実に守ろうとせず、自らの実力と現状を見極めずに、口先だけの理想ばかり追い求めるからこんな無様な結果になるんだよ。何がどう悪かったのか、個々しっかり反省しておくことだな」


 項垂れる団員たちに止めを刺して、クニさんはバイオリンを手に部屋を出ていった。須々木女史も冷たい視線を浴びせながら彼に続いて部屋を出る。全くそうです、その通り、反論一つ出てきません――なんてことを言い返す気力さえ僕たちにはありもしなくて、どんよりとしたお通夜モードがみんなの頭上へ重苦しく漂っていた。


「なあ間山くん、多様性ってなんのこと言っとるん」というミファの場違いな明るい声だけが、トュッテイ部屋で無常に響いた。

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