1・会議は踊る(13)

 二週間後の土曜日、「屋根の上の牛」の初合わせの日となった。

 トゥッティ部屋に入り、椅子と譜面台の準備をする。オケの合奏で使うには狭い部屋で、団員が三十名ほど入ってギリギリセーフ、さらに人数が増えるとトュッティ部屋は地獄絵図だ。弦は肘が隣に当たり、木管は弦と金管の隙間に追いやられ、トランペットは弦の音を掻き消して、トロンボーンのスライドが前の人の頭にぶつかる。


 とにかくこの建物自体が古いのである。防音室とは名ばかりで、気持ち程度に開けられた壁の防音穴はその役目を果たすことなく、隣の合唱部の部屋へ絶えず音を垂れ流し、逆に合唱部の歌声もこちらへ駄々洩れだ。空調設備は埃を真っ白に詰まらせて、猛暑の夏は熱中症寸前までいき、冬は底冷えした床が足を凍らす。ヒーターを付けるとブレーカーが落ちる始末だ。こんなんでまともな練習ができるはずもなくて、休日の練習では会議室や市の公民館を使うことが多かった。


 予算の乏しい城西外大は、サークル活動などという学生の娯楽に金を回すことなんてとてもできないのだ。大学も、教師も、学生だって金はない。ザ・貧乏、貧乏学生が集まる貧乏大学。W貧乏が故の悲しい宿命だった。


 さて、今日はどれだけの部員が集まるのだろう。とりあえず弦楽器は三プルト(二人一組の数え方)分の椅子を準備したけど、就活やら他に用事があるやらで、それだけの人数が揃うことはまずあり得ない。案の定、練習に来たバイオリンは八人、ビオラなんてたったの二人だ。こういうときのコンマス・クニさんはすこぶる機嫌が悪くって、苛立ち混じりの演奏を狭い部屋に当たり散らしていて、「ギャンギャン」という乱暴な音色の文字が壁に突き刺さるようだった。


 譜面台に楽譜を置いて僕も音出しを始める。クラリネットはファーストのソロが大変なだけで、セカンドは一、二か所ほど目立つ以外、気になるフレーズはほとんどない。こんなもんだろうと思いつつ、手ごたえのない自分のパートに物足りなさを感じなくもなくて、僕だったらソロをこう吹くかな、いやそれともこう吹こうか、なんて叶わぬ夢をぼんやり考えていたら、パートリーダーの粟崎さんが楽器を持ってやってきた。「座る場所ってここでええん?」と尋ねながら、僕の隣――ファーストの席へゆったりお上品に腰かけた。


 あれ? と僕は首を捻る。

「牛のファーストって波藤さんのはずですよね。波藤さんはお休みですか?」

 僕の問いかけに粟崎さんはゆるりと頬を緩めた。京都育ちの粟崎さんは、立っているときも漫画を読むときも常にはんなりおしとやかで、強い風で背中を押されたり小さな肩を突かれたりすると、腰の辺りでポキリと折れてしまいそうなほどの儚げな風体をしている。返事するにもおっとりと、一、二ほど間が開いた。

「波藤さんなあ。海外青年協力隊に入りたいからって、大学一年お休みするねんて。昨日連絡もらってん」


 マジっすか、と思わず叫んだ。さすが外大、思い立ったが吉日どころか海外だ。

「うん、だからサブのトップは私になったん……あ、アルくんがファーストでもええんやで? 私の出番はオープニングもあるからな」

 条件反射のようにして「あ、いえ、いいです」と首を振った。振ってから、折角のチャンスを逃した自分にほんの少し後悔する。


「曲もよう知らんし吹けるかなあ」と不安そうに楽譜を見ていて、「波藤さんからパート譜を貰ってなかったんですか?」と訊き返すと、「『百歌ひゃっか祈祷師きとうし』の最新刊が発売されてなあ、これがまためっちゃオモロくて読むのに忙しかってん。竜生たつきって子が鬼になってもうて、妙恵たえが平安時代まで薬を取りに行くんやけど、ライバルの道真みちざねが邪魔しにかかってなあ……」という説明がダラダラと始まった。最後には「アルくんも読みたいやろ、今度貸したげるで」と嬉しそうに勧めてきたので、読みたいなんて言ったかなあと疑問を抱きつつ、はいそうですねと軽く答えておいた。


 ちいーっす、と、ファゴットを抱えた間山もトュッティ部屋に入ってきて、トランペットの丹生さんに伯太団長、オーボエの加田谷さんにビオラの須々木女史と、他の団員たちもぞろぞろ揃い音出しを始める。チューニングを終えて指揮者タダさんが壇上に立つ。


「それじゃあ初合わせ始めます。えーと」と、ぐるりと見渡して、「弦は、まあこんなもんか。管の方は揃っとるな。……あれ、なんでファゴットが二本いんや? この曲ってファゴット一本やんな」

「アシスタントでぇす」と、ご機嫌いっぱいの声が左横から届いてきた。

「はあ? アシスタントがいるほどの曲でもないやろ」

「だってこの曲、たの……ゲフンゲフン、間山くん一人だと大変そうやってん。大人しくしときますんでお構いなく。ゲッフン」

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