1・会議は踊る(11)
というわけで、早速パート譜作りに取り掛かる。初合わせは二週間後だからそれまでに仕上げてしまわないと。その夜、僕は間山の部屋へ久しぶりにお邪魔した。彼はサークルボックスからすぐ近くの男子学生寮に住んでいる。廊下に溢れる黴臭さと酢を腐らせたような体臭が充満し、食べカスの残った菓子袋が廊下に散乱していて、黒光りする虫にとっては三ツ星ホテルにも匹敵するほどの素晴らしい環境である。
「うーん、いつ来てもこの居心地の良さには惚れ惚れするね」
「だろ? 寮費は安いし大浴場もあるしで最高だよ。アパートへ引っ越しする気も起こらねえ」
キュウリかほうれん草か、干からびた謎の物体をそろりと避けながら廊下を歩いて部屋に入る。四畳半の狭苦しい部屋にはベッドが一つに小さめの木製テーブルが一つ、十五インチほどの小さなテレビが直置きしてある。床に散らばる教科書と漫画本と衣服とで、くつろぎスペースは足一個分しかなかった。それらを壁際へ乱雑に押しやり、新品の五線譜と僕のノートパソコンをテーブルに乗せた。
「間山くん、まさかパート譜を手書きするつもり? 牛のスコア本って七十ページ以上もあるんだよ」
「楽譜ソフトの使い方知らねえもん。こんなの手書きで十分だ」と言って、鞄からシャーペンとコピーしたスコア本を取り出す。
マジかよ、と絶句する。パート譜作りは、スコアを切って糊付けするような単純作業ではない。複数の小節休符(一小節全体が休みのもの)を数え、長休符という記号を使い、譜めくりの位置も考えながら、頭を使って見栄えよくパート譜を手作りしなくてはいけないのだ。「使い方を教えてあげるよ」とパソコンを勧めてはみるものの、手書きの方が速いとか、手書きには味わいがあるとか、あれやこれやと難癖を付けては聞く耳を持とうとしない。手書き風を味わうも何も年賀状じゃあるまいし、とどの詰まりは説明書を読むような単純作業が嫌いなだけなのだ。
僕はパソコンで、間山はシャーペンで、ああだこうだと頭を悩ましながら地道に楽譜へ書き移していく。
「しかしまあ、間山くんがここまで牛に熱を上げるなんて意外っていうか、ちょっと驚きだったよ。余程この曲が好きなんだね」
「好きっていうか……牛ってファゴット一本だろ? あいつがいなくて気が楽なんだよ」
なるほど、ようやく腑に落ちた。牛だったらミファと一緒に演奏しないで済むからか。いつもになく選曲に必死だったから、妙だとは思っていたのだ。
「アル、コーヒーでも飲む? インスタントだけど台所から取ってくるよ」
間山が立ちあがりながら訊いてきた。寮の台所、トイレ、風呂は共同だ。
「うん、助かる。間山くんは何ページ進んだ?」
「まだ五ページ。写譜って思ってた以上にクッソ大変だなあ。誰が選んだねん、こんな曲――あ、俺か」
「ははっ、ボケも関西弁もすっげ下手くそ」
「うっせ、アルよりはマシだ」
「残念でした、僕は関西弁を喋らないよ」
「アルの家って天王寺の辺りだろ。関西人だったら関西人らしく関西弁喋れよ」
「元々の実家は茨城だからね。間山くんも東京だろ。東京にも同じような外大があんじゃん、城東外大って。わざわざ関西選ばなくても、あっち行けばよかったのに」
「んー……家族の干渉がウザくてやなあ、どうしても家を出たかったねん」と、イントネーションの怪しい関西弁を残して部屋を出ていった。
五ページ仕上げたとかいう楽譜を見ると、ぐりぐりと書かれた音符の列が盆踊りのようにフラフラと歪んでいて、書き疲れた様子が汚い音符に見て取れる。パソコンの方が絶対楽に書けるのに、あいつは妙なところでいつも強情になる。
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