1・会議は踊る(9)

 僕の真向いにいるオーボエの加田谷かたやさん――確かドイツ語で四回生だったはずだ――の顔色をそっと窺うと、垂れ下がった長い前髪がため息か何かでずっと揺れていて、


「なんやねん、ファゴットが木管代表のようになってしもうとるやん」

とか、

「なんか、うちらの意見がどっかに飛ばされてもうたなあ」

とか、

「やりたいのがちゃうのは、しゃあないやんか。好みはそれぞれあってええもんや」

などとか、

「変な和音がある牛よりは未完成のメロディーの方がいいけど、弦の言いなりになるのだけはヤやなあ」などといったボヤキが、こちらまで聴こえてくるようだった。


「君はどうするつもりなの」と、隣のクニさんがこちらを向く。「このままだと未完成か牛に決まりそうだけど。クラの代表でここに来てるんだろ。意志を持たない一票は委任状と同じだよ」


「そ、そりゃあ僕だって小組曲にはこだわってますよ、でも……」

悔しいけれどその先が続かない。小組曲はクラリネットの先輩の波藤なみふじさんと一緒に選んだものだ。曲調が可愛くってキラキラしてて、木管の魅力を最大限に引き出していて、聴いた瞬間にこれだと思えた曲だった。貴重な僕の一票を他の曲には譲りたくない。けれどもこの状況を一からひっくり返すような説得力は僕にはなくて、何もできないまま時間だけがズルズル無駄に過ぎていく。


 クニさんの口からチッと舌打ち音がした。苛立ち、落胆、威圧感。僕の気弱さが情けなくなる。

「ホルンは? 金管がこんなことになっとるけど、何か意見ないの」との伯太団長の催促に、「マスネは前からやりたかったんやけどね。でもこれじゃあ無理かなあ。めっちゃ不本意やけど消去法で牛に変えます」とホルンが述べた。

「よし、チューバも入れたらこっちも五票」と、間山が拳をグッと握って呟いた。おいおい、勝手に自分の票へ入れるなよ。委任状はトランプのジョーカーか。

「まあ、そもそも外大にふさわしい演奏ってなんやって話やな。まずはそこから始めよか」


 トランペットの丹生にゅうさんが口を開いた。ヒンディー語の三回生である。

「外大らしいって思うんなら、それこそミヨーの曲を否定するのってどうなんやろね。ミヨーってあらゆる音楽から影響されてるすんごい人やからな。印象主義のドビュッシーもそうやし、多調性の音楽はストラヴィンスキー、それにサティとか、シェーンベルグとか。ブラジルの民謡とかサンバも取り入れてるし、ジャズっぽい曲なんかも作っとる。曲作りにめっちゃ柔軟性があるんやで。柔軟性ってのは多様性に理解がないと身につかん。多様性ってのは、相手に敬意を持つことと自身に誇りを持つことなんや。両方天秤にかけて、上手いことバランス取れとるっつーのが多様性。大概が相手への敬意が軽すぎて、自分のことばーっかで天秤がガクンと傾いとるから、戦争になったりするんやけどな。かといって誇りをなくしても、それはそれであかんけど。敬意の方に乗せる重りは、相手のことを理解しようとする学びの精神とか、あとは――せやな、料理とか文化とか音楽みたいな芸術とか。音楽をすることは人の多様性を豊かにすることなんやで。外大ってな、けったいな言語ばっか習ってて、めっちゃ変な奴ばっかり揃っとるんやけど、でもそれがいいっつうか、多様性があるからオモロいんやないの。そこらへんに音楽をする意義があると、俺は思っとる」


 真面目さを絵に描いたような顔つきである丹生さんは、喋るたびに太い眉と濃い揉み上げがピクピク動く。そんな動きが気にならないくらい、丹生さんの発言には真っ直ぐな芯が通っていて、普遍的な価値観に皆が黙った。クニさんも、あれほどキイキイと騒いでいた須々木女史でさえも。


「ふむ」と頷くのは指揮者のタダさんだ。斎藤さいとう正泰ただはる、英語科三年。通称タダ。「丹生くんの発言には一理あるなあ。楽器の編成自体に問題はないもんなあ。どうしても古典をしたいっていうんやったら、ベートーベンとかハイドンとか、オープニングにそれを持ってきたらいいわけやしな。技術力も必要やけど、やってみたいっていうエネルギーはそれに勝るかもしれんで。牛にはそれほどの魅力があるってことやし、今回はそれに賭けてみてもええかもしれんな」


 そうだよな、と僕も賛同する。中立的な立場から物申されるとそれなりに説得力はある。指揮者の意見はオケで最も強くて、最終的な決定権は指揮者にあるのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る