Ⅰ:ダリユス・ミヨー「屋根の上の牛」

1・会議は踊る(1)

 上管と下管をピタリと接合し、マウスピースを嵌めてリガチャーを付け、濡らしたリードを合わせて黒い貴婦人に祈りを捧げる。

 ――どうかいい音をお願いします。


 マウスピースに唇を合わせ、舌先でリードに優しく触れた。水辺に揺れるあしの匂い。これだけで楽器のご機嫌がもう分かる。高校のときに購入したビュッフェ・クランポン。付き合って三年、手放すことのできない僕の大切な恋人だ。トーンホールに指を当てる。息を吹き込み、リズミカルな指の動きで彼女の歌声を確かめる。うん、伸びやかだ、今日も調子は悪くない。


 吹奏楽部のときからの癖で、練習を一日でも休むと口の筋肉が落ちるような強迫観念があって、時間が許す限り外大のサークルボックスに通い詰めていた。今日は午後から選曲会議があるから、朝早く来て一時間ほど音出しをした。誰もいないトュッティ部屋は、思いのまま吹き鳴らせるのが爽快だ。昼近くになると弦が一人、二人と音出しを始めたから、楽器を片付けて煙草を吸いに屋上へ出た。


 ここの楽団に入って早一年。今ではすっかり僕も「こちら側」の住民だ。


 サークルボックスの壁をすり抜けた楽器の音が風に運ばれていく。僕の吐き出す煙とタンポポの綿毛がそれに続く。白い尾を引く煙と無数の音符は、タンポポの綿毛に包まれてはるか遠くの街並みへと吸い込まれていった。


 山手に建つサークルボックスは、屋上から眺める景色が最高に牧歌的で、意識を適度にまどろませる。視界にあるのは木々の緑と赤レンガに覆われた大学があり、石ころやガラスの破片を砂場にザラザラと落としたような街並みがふもとの平野部に広がる。その平野部に突き出た一本の棟――城西大学の最先端医療センターがこの屋上からもよく見えた。ゲノム医療や遺伝子治療などの研究のために最近建てられたものだ。医学部は大学資金の羽振りがいい。僕の通う工学部なんて、三十年分の塵と埃が積もるというのに。大学の中にだって格差はあらゆるところに存在している。


 城西大学オケの練習場は医学部の敷地内にある。今ごろ扇田も必死に練習していることだろう。コントラバス初心者である扇田は、城西大学の演奏技術に食らいつくだけでもやっとだと、僕と会うたびにボヤいている。


 昨年暮れの城西大学コンサートは、それはもう素晴らしいものだった。ラフマニノフの「交響的舞曲」、ピアノやハープ、各種打楽器、バスクラリネットやコントラファゴット、アルトサックスまでありとあらゆるものを取り入れた贅沢な編成をしていて、ラフマニノフ自身の生涯を懐古した感傷的なフレーズを雄大に奏でる曲である。城西オケは千七百席を有するザ・シンフォニーホールの威厳を損なうことなく、波乱万丈なラフマニノフの生涯を見事に歌い上げていて、こんな経験をすることができた扇田が羨ましくてならなかった。美華も探したが演奏会には出ていなかった。扇田情報によると、クラリネットは人数が多いから外されたということだ。なんとも厳しい環境だ。


 煙草を口にして、雑多な砂場の街と医学部の建物を煙で上塗りした。肺に溜まる空気の淀みが、まどろむ脳にピリリと刺激を与えてくれる。

「なあ、アル、間山くん見てへんか?」と背後から女性の声がした。ミファだ。

「うん? 廊下にいなかった?」

「どこ探してもいてへんの。もうすぐ選曲会議が始まるのに、練習サボってどっかへ逃げとんよ」

「さっきは珍しく真面目に音出ししてたようだけどね。下から音が聴こえてたよ。もしかしたらトイレにでも行ったんじゃない? 煙草吸いに来たら、ミファが怒ってたって伝えとくよ」

「怒ってへんもん。早よLINEの返事しいって伝えといて」


 唇をつんと尖らせて、怒った顔さえ美人になる。無造作に括った髪を風に泳がせながら、非常階段を降りていく。脚に合わせてモスグリーンの濃淡がスカートに踊っていた。

 手にした煙草を再びくわえる。二回吐き出したあと、「なあアル」と掠れたような声が僕を呼んだ。

 やっぱり来た。「悪いけどラ……」と最後まで終わらぬうちにライターを投げてやる。煙草をくわえたまま二人で手摺にもたれ掛かった。


 旨そうに鼻から煙を出す声の主は、明るめの短い髪の毛を春風に揺らせながら、まるで十時間くらいぶっ続けで練習したくらいの疲れを目元に滲ませていた。実際は十分程度の音出しだったはずだが。

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