(4)

 部屋をノックしてドアを開けた。

「――すみません、ここのオケのことで、連絡した者ですけど……」


 中を覗いてギョッと目を見張った。幅四メートルほどの小さな部屋の両脇には天井にも届くような大きな棚があって、漫画本がぎっちりと隙間なく押し込まれている。その数何百冊あるというのだろう。もしかして漫画研究会と間違えたのだろうか。スミマセン、と首を引っ込めてドアを閉めようとした寸前、「待って、入団希望の人なん?」という女性の声に呼び止められた。


 奥の窓際の前で、パイプ椅子に女性が座っている。持っていた黄色のA4ノートを閉じてこちらを向いた。パステル色をしたブラウスに白いロングのスカート。背筋が良くて首が長い。栗色の髪は肩の辺りで内側に巻いている。色褪せた漫画本と、干からびたような壁と、灰色の綿埃が這う床の中で、彼女の周りだけが暖かな太陽の光に包まれているような、誰もが一目見て綺麗だなという印象を持つ女性である。


 彼女の目力は美華のそれよりはるかに強力で、周囲にある空気も、光も、何もかも吸い込んでしまいそうな力を秘めているようで、どうやら僕の言葉さえも吸い込まれてしまったようだ。えっと……という言葉から先が続かない。二、三、浅く呼吸して気持ちを整えた。


「……ホームページを見て連絡したら、ここに来て欲しいって言われたんですけど……」

「ほんまに? 希望の楽器は?」


 吸い込んだ太陽の光が女性の瞳から放たれてくる。僕の言葉は再び目力に吸い込まれ、吸引力に抗うことのできない口が幾度かどもった。


「えと、ク、クラリネット、です」

「ああ、クラかあ、募集空いてたかなあ。団長に確かめてみんとあかんわ。弦楽器には興味ないん?」

「弦はあんまり。高校の音楽の授業でクラシックギターをしたことがあるんですけど、指が痛いし僕には全然向いてなくて」

「ふうん。やったらファゴットはしいひん? 楽器が一台余っとんやけど」

「いや、できればクラがいいな。中学からやってきたし、楽器も持ってるから」

「なあんや」と、女性は染み一つない頬をぷくりと膨らませた。「ま、ファゴットには一人入ったから、まあえっか。このノートに学科と学年と担当楽器と名前を書いといて」


 パイプ椅子から立ち上がり、手に持っていた黄色のA4ノートを僕に渡してきた。肩から二の腕にかけて大きく穴が開いていて、産毛のない細い腕が露になっていた。友人の妹が持っていたビニール人形のような、まるで作り物のような滑らかさだ。


 渡されたノートをパラパラめくる。『〇年度新入団員名簿』という欄の下に、十名ほどの名前が記されていた。指示されるままに名前を一番下へ書き込んだ。

「練習は月・火・木の十八時からと、土曜の十三時から。月曜は弦セクション、火曜は木管セクションで、木曜と土曜はトュッティ(合奏)部屋で音合せな。個人練習はいつ来てもええよ。LINEグループに入ってもらうから、休む時はちゃんと連絡して――あれ? 工学部って? ここの大学生やないの?」

「あ、城西大学です」

 僕の返答に女性の目力がひと際強くなる。


「ええ、なんでここに来たん? わざわざうちにせんでも、あっちのオケに入ったらええやん。ここのオケって予算も金もないし、団員は少ないし、トュッティ部屋は狭くて汚いし、貸してあげれる楽器は古いし、譜面台は壊れて使いもんならんのばっかやし、合奏も下手っぴやし、エアコン壊れとるし、元気で楽しいだけが取り柄の弱小貧乏オケやで。漫画ばっかのこの部屋なんて漫画喫茶ちゃうんよ、木管のセクション部屋なんやで。ビックリやな。うちもこのオケ大丈夫かなって、来たときはめっちゃ不安になったもん。今はしゃあないなって毒されて目が慣れてもうたけど。あっちの方が伝統あるし、いい音楽もできるやろうし、お金もめっちゃ贅沢できるやろうし、よっぽど健全でご立派やと思うわ。ここに入ったらきっと後悔すんよ。ホンマにここでええん?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る