きみの信仰を手放さないで

十余一

きみの信仰を手放さないで

 麗らかな春の日。これ以上ないくらい晴れわたる空の下で、愛犬のキナコはくるりと巻いた尻尾をご機嫌に揺らしながら歩いている。普段から散歩大好きだけど、今日は絶好の散歩日和だからいつも以上に楽しいのかもしれない。時おり私を見上げては目を細める姿がたまらなく可愛い。

 そうしていつもの散歩道を辿って交差点を曲がり、まず目に入ったのはゴミ捨て場に倒れている人。……、人!? し、死んでる……?

「大丈夫ですか!?」

 私が咄嗟に駆け寄ると、突然、閉じられていた瞼がカッと開いた。

 腰を抜かした私と、私と一緒に驚いて後ずさったキナコと、まだゴミ捨て場のネットに埋もれている人。その人はゆっくりと起き上がると、しばらく自分の手足や身体をしげしげと眺めたり顔をペタペタと触ったりしていた。そうしているうちに、こちらに気がつく。

 私と目が合うと見知らぬ人は穏やかな笑みを浮かべ、口を開いた。高く柔らかな声だ。

「ああ、お梅かい。今日も来てくれたのだね。嬉しいよ」

「人違いです」

「そういえば、なんだか幼くなったようにも見えるな。どうしたんだい、お梅」

「お梅じゃないです」

「わんこも一緒か。かわいいね、タロウ」

「キナコです」

 この人、全然話を聞かないな。酔っ払いだろうか。前後不覚になるまで飲んでゴミ捨て場で一夜を明かしたのかな。春とはいえ夜はまだ冷えるのに。よくよく見ると格好も少し寒そうだ。羽織りも防寒具も纏わずに着流しだけ、足元は素足に下駄。黒く長い髪は低い位置でひとつに纏められている。

「いろんな意味で大丈夫ですか。ちゃんと家に帰れます?」

「心配には及ばないよ。わたしの居場所はなのだから」

 視線の先には、何の変哲もない街角のゴミ捨て場があった。収集日を書いた看板はところどころが錆び、緑のカラス除けネットは使い古されてくたくただ。この麗人、可燃ゴミの擬人化?

「はて、ここは何処だ。わたしは何故、いつから、ここにいるのだろう。そもそも、わたしは誰だ?」

 記憶喪失のド定番みたいなこと言いだした。

 さすがにこんな状態の人を放っておけるわけもなく。このあと警察や病院に行くとしても、その前にもう少し話を聞いておこうと思った。一度関わったら最後まで面倒を見ること。キナコを保護したときと同じだ。

「せめて自分の名前だけでも思い出せませんか」

 彼女は視線を右上に彷徨さまよわせ、次いで左上、そして最後に私と目を合わせて首をかしげた。そんな「逆に聞きますけど、わたしが知ってるとお思いで?」みたいな顔されても困る。それでももう一度悩み、眉間にしわを寄せたまま呟いた。

「さい……、さい、の……」

 サイ、サイサイXサイ? 目の前の彼女は角の生えた生き物でもなければ、ましてや四角いサイコロでもない。未知数エックスではあるけども。

 彼女は「この辺りまで出ているのだけれど」と、みぞおちに手をやった。ほぼほぼ出てないじゃないか。

「サイさん? とりあえず交番に――」

 私の言葉を遮って、彼女はまっすぐに見つめて言い放った。

「ひとつだけ思い出せたことがあるんだ。道案内を頼めるかい」


 川沿いに続く桜並木を二人と一匹で並んで歩く。尾を振るキナコとともにサイさんも楽しげな足取りだ。

 道案内を頼みたいと言い出した彼女だが、行き先は他の記憶とともに朧気なものだった。「桜が咲いているのを見た……ような?」という曖昧にも程があるヒントを元にここまでやってきた。

 近所で桜の名所といったらここだ。ゆるいカーブをえがく川を満開の桜が彩る。淡いピンク色の世界はずっと向こうまで続き、散った花弁はいかだを作り川を下っていった。

 ふと、サイさんの歩みが止まる。

 この美しい景色を見ているはずなのに、その目に桜は写っていない。焦点の合わない双眸は、ここではない何処か遠くを眺めているような気がした。心ここにあらずの彼女は、口の中でぼそぼそと呟いた。

「お梅や、お梅。母君のお加減はどうだろうか。薬が効くと良いのだけれど」

 ハッとした彼女は何度か瞬きをして私に尋ねた。本人が一番驚いている。

「わたし、何か言っていたかい?」

「ええ。お梅とか、母君のお加減はどうとか」

「そうだ。お梅、きみの母君はしばらく養生していただろう」

「私はお梅じゃないですってば。あと母は病気ひとつしてません」

「それはなによりだ。けれども、きみは本当にお梅ではないのかい? そっくりなのに」

 サイさんはしゃがみ込むとキナコにまで「そっくりなのにねぇ」などと話しかける。キナコはされるがまま撫でられていた。

 彼女はふわふわの毛並みを堪能する手を止めずにのたまう。

「またひとつ思い出したのだけれど。わたしが行くべき場所は、もっと見晴らしの良い場所だった気がする」


 桜が咲いていて、見晴らしの良い場所。その条件で真っ先に思いついたのは私が通っている高校だった。

 市街地のなかにぽつんとある小高い丘、その頂上に位置する学校へは決して楽ではない坂道を登って行く。この道のりを毎朝恨めしく思いながら歩いているけど、桜が咲く時期だけは美しい景色に足取りも多少軽くなる。だからといって休日にまで来たくはないけど。相変わらずキナコとサイさんは歩みに喜びが滲み出ていた。

 頂上から街を一望していると、再びサイさんが上の空な様子でつぶやく。

「お梅や、お梅。おめでとう。愛しいあの人と結ばれたのだね。何度も相談を聞いた甲斐があったというものだよ。幸せにおなり」

 キナコのワンという一声でサイさんは我に帰る。

「また何か思い出したんですか?」

「思い出した、思い出したよ! お梅の母君が病に伏せっていたのは、ずっと昔のことだった。ちゃんと快復して、お梅の祝言も見届けたよ」

「よかった。じゃあ目的地はここで――」

 彼女は残念そうに首を横に振る。

「思い出したんだ。そういえば、鳥居があったな」

 その情報、もう少し早めに欲しかったな。


 市街地の外れ、のどかな田園風景との境い目にある神社で赤いのぼりがはためく。石段を登った先の境内では枝垂れ桜が咲き誇っていた。口コミと地図アプリを見ながら辿り着いたこの神社は、なるほど条件に合致している。

 すると、サイさんはやはり……。この流れ、もうわかってきた。 

「お梅や、お梅。今日は赤子とともに来てくれたのだね。お礼なんて、そんな。わたしはずっときみたちの幸せを願っているよ」

 私は彼女に期待と不安の入り混じる眼差しを向けた。私の緊張がうつったのか、キナコもお座りしながらそわそわしているようだ。

 サイさんはゆっくりと、ひとつひとつの思い出を指でなぞるように辿ってゆく。

「お梅が祝言をあげたのも、ずっと昔の話だ。子宝に恵まれ幸せな家庭を築いた。……、でもその後。そうだ、思い出した。寺だ。わたしは寺に行ったんだ」



 私たちがたどり着いたのは、サイさんと初めに出会ったゴミ捨て場からそう遠くないところに位置するお寺だ。ずいぶん遠回りな散歩になってしまった。上機嫌なのはたくさん散歩できて嬉しいキナコだけだ。

「ここまで連れてきてくれてありがとう。世話をかけたね」

 サイさんは慣れた様子で花に満ちた境内を歩き、墓地へ続く階段を登る。私は曖昧な返事をしながら、その後について行った。

 桜の木に囲まれ整然と並ぶたくさんの墓石。そのかたわらには、身を寄せ合うようにして小さな石仏がいくつかある。刻まれた文字は風化して読めず、人の形をした彫刻には苔がしていた。

 そのひとつを背にして、彼女は言う。

「わたしは、やっと自分のことを思い出せたよ。信仰を失って久しいサイノ神だ」

 とても冗談を言っているようには見えない。そして彼女の身体が薄すらと透け始めたことが、人ならざる者としての何よりの証拠だ。

「かつてこの国では、神も仏も一緒に祀られていたし、路傍や街角にはわたしのような存在が祀られていた。人々の素朴な祈りを受けとめるためにね。お梅のように熱心に拝んでくれた者もいたよ。おそらく、きみはお梅の縁者なのだろう」

 サイさんは滔々と語る。

 それらが一変したのは、御一新――明治維新。文化の形が無理やりに変えられてしまった。分離、選別、破棄、破壊。庶民の素朴な信仰は否定され、俗信は人を惑わし文明開化を妨げるものとして排除された。

「けれども、昨日まで拝んでいたものを、今日になっていきなり捨てなさいと言われても困るだろう。そうして、わたしは寺に預けられた。供養のためにね。捨てられる神あらば、拾われる神もある……、ということだ」

 彼女は虚しく笑った。諦めに少しの悲しみと寂しさが混ざる。「人の心から生まれたわたしが、移ろいゆく人の世から消えるのも道理だろう」と、諦観している。

「最後に自分が何者か思い出せて良かった。何もかもを忘れて、忘れられて、そのまま消えてしまうだなんて寂しいから」

「最後なんて言わないでください」

「今日こうして出会えたのも、燃え尽きる寸前の蝋燭ろうそくが見せた陽炎にすぎないんだ」

 この神は、本当に私の話を聞かないな。散々人を振り回しておいて、一方的に言いたいことだけ喋って。

「さようなら。幸せにおなり」

 神々しさよりも優しさと温かさを感じさせる笑みを浮かべそう言うと、サイさんはあっけなく消えてしまった。

 朽ちかけた石仏は、ただ静かに佇んでいる。

 茫然とする私を気遣ってか、キナコがぐいぐいと鼻先を押しつけてきた。それに甘えて、ぎゅっと抱きつく。

 いにしえの神は、人の幸せを願い続けた神は、自らの幸せを手放したまま消滅した。現代を生きる私に百余年の孤独を知らしめて消えた。言い逃げだ。もう何もかも遅いのかもしれない。けど。せめて、私だけでも忘れずに祈り続けようと思った。

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