繋いだ手

ルリア

繋いだ手

きょうもゆっくりと夜がふけていく。

きみが傾けたグラスから、からりと氷のおとが響く。


さっきから僕たちはただ手を繋いだままずっと、黙っていた。

お互いの体温を交換しながら、きみの指にはめられているアクセサリーの硬質な感触に焦がされる僕の胸の痛みを、きっときみは正確には知らない。


「このまえ、海を見に行ったの」

「ひとりで?」

「そう。なんとなく、水平線が見たくなって」

「うん」


僕がちらりときみに視線をおくると、きみはじっと僕を見ていた。

僕と目が合うとふわりと笑うきみは、まったくどうして、いつもどおりで。


「ぼんやりと海を眺めているときにね、水平線ってどれくらい遠いんだろう、って思ったの」

「うん」

「見ることはできるのに、手は届かなくて。水平線を目指して近づいていっても、きっとそこにたどり着いたことにはいつまで経っても気づけないじゃない?」

「その場所が、きみが陸地から見たはずの水平線だったとしても、いざそこにたどり着いてみたらなんとなく思っていたのとちがうとか、そもそもたどり着いたことに気づかないとか、そういうはなし?」

「うん、そう」


理解してもらえたことがうれしかったのか、きみはずっと花が咲いたかのようにほほえむ表情をくずさない。

僕はきみのその笑い方が好きだってこと、一度でもちゃんと言葉にして伝えたことがあっただろうか、という疑問があたまをよぎる。


「届かないと思っていたものに手が届いたとき、たぶん、そこはほんとうのゴールじゃないんだなって、なんとなく思って」

「うん」


僕は空いている方の手でテーブルに肘をつき、手のひらに顎をのせて、はなしを続けるきみのことをじっと見つめる。


「そのさきに見えた景色を、わたしはどう受け取るかわからない。このままどこまでも進みたいって思うのか、その場所を遠くから見ていたときの地上に戻りたいって思うのか」

「うん」


繋がれた手からすこしだけ、きみの体温があがったのを感じる。


「海は、きれいだったよ」

「うん」

「日常の慌ただしさに押し込められているわたしがふだん、あたまのなかに描いている海よりも、ずっと広くて、きれいで、風がつめたかった」

「そっか。春はまだ先だもんね」

「うん。なんだか、迷子になりそうだった」

「迷子に?」


きみはふたたび残りが少なくなっているグラスを手にとり、それを傾けて中身を飲み込む。

音も出さずに液体を嚥下するきみの横顔もまた、僕は好きだと思う。

そうやってきみはふたたび、からりと氷のおとを辺りに響かせる。

そしてさきほどよりもすこしだけ、顔をそむけた位置から僕の目を見つめる。


「そう、迷子になりそうだったの。わたしはどこに行きたいんだろうって思って」

「どこに行きたいの?」

「それが、わからないの」

「うん」

「正確に言うと、わたしがいま、どこにいるのかもわからなくて。どこを向いているのかもわからない」


そう言って押し黙るきみは、ぱちり、ぱちりとゆっくりとまばたきをする。


「そういうのを抜きにしたら、きみはどこに行きたい?」


その僕の言葉をどう受け取ったのか、きょとんとした表情のきみはゆっくりと首をかしげ、すこし考えたあとでいたずらに笑う。


「ひみつ」

「教えてくれないの?」


きみのこたえを聞いた僕も、ふっと笑う。


僕たちは見つめ合ったままで、僕はきみが声にしようとしているつぎの言葉を待つ。


薄く開いたきみの、その形のいい唇からこぼれ落ちてくる言葉だけが、いまこの瞬間の僕にとっては世界のすべてだった。

僕たちが共にしている時間は、いつだってふたりにとって世界のすべてで。


「わたしのこと、いちばん、にはしてくれないんだね」


ふいにこぼれたきみの声とその言葉が、静寂をやぶる。

僕からふっと視線をそらし、そのまま目を伏せるきみの表情は、とても悲しそうだった。

よくそんな表情ができるな、と僕は感心する。

きみだって、僕のことをいちばんにはしてくれないくせに。

その言葉をごくりの飲み込んで、僕はなんでもないふうをよそおう。


「うん、わかるよ」


きみの横顔から読み取れる表情を見逃すまいと、僕はきみから視線をそらせない。


「そう、わかるのにね。わかるのに、どうしてなんだろう」


きみと繋いだ手がぎゅっと強く握られる。それでも、きみの力は僕よりもずっと弱い。

僕はすこしだけきゅっと握り返す。きみが決して、痛くないように。

それが、それだけが、いまの僕がきみ返せる唯一の優しさみたいなもので。


それに気がついたきみがまた、僕を見る。


僕は、一度だけぱちりとまばたきをして、声には出さず口の形だけできみに言葉を伝える。


それを見たきみは、すこしだけ目元をほころばせる。


そしてきみも、声には出さずに僕と同じ言葉を口の形だけで伝えてくる。


それを見た僕もまた、すこしだけ目元をほころばせる。


まるでその言葉を声にしたらなにかが壊れてしまうことを確信しているかのような僕らの手はまだ、繋がれたままだった。






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繋いだ手 ルリア @white_flower

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