029 【Side.アシェラ】油断

 精霊の声が、これほどまでに明確に聞こえたのは初めてだった。


『逃げて』

『早く』

『殺される』


 口々に前後左右から聞こえてきたのは、あまりにも不穏当な言葉だった。他にも何か喋っているようだったが、古代語なのでよくは分からない。だが、良くない意味であることは直感的に理解できた。


 アシェラはこの時ようやっと、自分たちに訪れる危機に気づいた。

 だがそれは、あまりにも遅すぎたのだ。


「教官――!」


 とにかく、叫ぶことしか出来なかった。なにがなんだか分からなかったけど、激しい危機感だけが原動力だった。

 刹那、草木が擦れる音とともに現れた大きな影。辺りは土煙で包まれ、その中で薄っすらと人が吹き飛ばされている様子が見えた。


(ま、魔物……!?)


 そこには、大きな魔物が鎮座していた。茶色く短い毛が生える体表、すらっと伸びた頭からは段々に枝分かれした硬質な角。まるで鹿のようだが、尻尾は細長くうねっていて、よく見るとそこに口と牙がある。その姿は蛇を思い起こさせる。


「なによ、あれ……」


 アシェラは、初めて見るその魔物に足が竦んだ。成人男性なんて優に超えるほどの体長に、ムチのように激しく波打ちながらこちらを威嚇する尻尾。その血走った目は、どう見ても敵対的な雰囲気だった。

 だが幸いなことに、その魔物はアシェラを狙うことはなかった。一目散に逃げる見習い騎士の背中を追いかけ、辺りを駆け回る。色んな人の悲鳴が飛び交い、現場はカオスと化していた。


 アシェラは、呆然とただその状況を眺めることしか出来なかったが、ふと視界の端に一人の怪我人が見えた。

 それは、一番最初の攻撃で吹き飛ばされた教官の一人。

 よく見るとその胸元は血で赤く染まっていて、かろうじて息はあるようだが、全くと言って無事には見えなかった。


 張り裂けそうな心臓の鼓動を感じながらも、アシェラはパンと自分の頬を強く叩いた。じーんとした痛みを感じ、幾分か冷静になれた気がした。


(落ち着いて……私は聖女よ、怪我人を治療するのが私の役目)


 アシェラはそう心で繰り返し自分に言い聞かせながら、地面に横たわる教官の元へと駆け寄った。


「ひどい……」


 思わず零した言葉の通り、教官はとてもひどい状態だった。

 体中に無数の傷や痣があり、胸と肩に複数の刺し傷もある。たった一回、魔物に攻撃されただけのはずだ。軽装とはいえ、鎧も付けていたのにこのザマ。

 どくどくと脈動するように血液が溢れ、ゆっくりとだが確実に命の灯火が消えかかっているようだった。


 アシェラは迷うことなく古代語の文句を唱える。

 精霊の力が呼応し合っているのを感じ、降り注ぐ魔力を必死に集中させた。

 これほどまでの大怪我を治療するのは、かなり久しぶりだ。だが問題ない。感覚は手の中に染み付いている。

 アシェラの治療により、体の表面の傷は少しずつじんわりと塞がりつつあった。


(これで……なんとか……!)


 治療は順調だった。このまま行けば、あと数分で全快できる。自分の中にある魔力がごっそりと持っていかれたが、どうにか足りそうだ。

 だがその瞬間、ふと背後からに風を感じた。


「あ、アシェラ聖女!!!」


 誰かの叫び声が聞こえたけど、その瞬間に体がふわりと舞った。

 直後全身が揺られ、視界に映る光景が瞬く間に変わる。あまりの衝撃に悲鳴すらも出せない。治療を続けていた魔力の糸は途切れ、どしゃりという音だけがあたりに響いた。

 アシェラは魔物に襲われ、その激しい突進をモロに食らってしまったのだった。


 そこから一瞬記憶が途切れた。


 そして次にアシェラは、自分がうつ伏せで地面に倒れていることに気付く。

 彼女が最初に見た景色は、魔物とそれに対峙する二人の騎士の姿だった。

 一人は教官、そしてもう一人はあろうことか見習い騎士だ。その小さな後ろ姿に、アシェラはそれがレインであることにすぐに気がついた。


 チクチクとする落ち葉の感触に顔を歪めながら、重たい腕を伸ばそうとした。

 だがしかし、攻撃を受けた所為だろうか――全身が鉄の塊のように重く、鈍い痛みが至る箇所に表れていた。


「レイ、ン……君……」


 かすれた声をひねり出し、必死に助けを求めるが、その声は当人には届かない。

 助ける余裕がないことなんて見れば分かる。必死に頭を回しながら、アシェラはどうにかして助かるための方法を考えていた。


 死にたくない、まだ生きていたい。

 無駄な足掻きだと分かっているけど、身勝手な願いだとは分かっているけど。

 苦痛に顔を歪めながら、必死に手を伸ばす。掴んだのはただの落ち葉で、くしゃりともろく崩れて、粉々になってしまうだけだった。


『あの子の願いだ』


 すべてを諦めかけたそのとき、目の前に現れたのは真っ白な猫。

 そんな猫が、古代語で話しかけてきたのだ。その理由のわからない状況に思考が一瞬ストップするが、すぐに一つの結論にたどり着いた。


「精霊様……?」


 猫は、なにも言わなかった。

 なにも言わなかったが、どうやらそれは間違いではなさそうだった。


 体を包み込むやけに温かい感触。春の陽気に包まれながら、どこかでお昼寝をしているかのような、そんなぽかぽかとした気持ちよさ。

 その感触が何なのかは分からないが、とにかく安心できることは事実だ。

 少し前までの焦燥はどこへやら。アシェラはその感覚に身を委ねるように、ゆっくりと目を細めた。


「かわいい……」

『……………………』


 心地よい魔力の流れに身を任せながら、アシェラは呟いた。

 その意識を手放すまで、アシェラはずっと猫をじっと見つめ続けた。可愛らしい猫の一挙手一投足を目で追いながら、アシェラは安らかな顔をしていた。

 対する猫の方はなにも喋らなかったが、なんだか微妙な表情をしていたのは分かった。

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