010 大精霊エルヴィーラ(2)

「レイン、誰と話して……って、猫か?」


 エルヴィーラの姿が見られたのかと思い、大いに慌てふためいたレネットだったが――ふと彼女の方を見るといつの間にか猫の姿に戻っていた。聖女であることがバレずに済んで、ほっと胸を撫でおろす。


「そ、そうなんですよ! 窓を開けたら急に入ってきちゃって!」


 少し気が動転して声が裏返ってしまったが、レネットはなんとか言い訳を成功させた。

 そんな白猫――もとい、エルヴィーラはベッドの上で丸まってじっとしている。かわいらしい姿だが、これがまさか精霊だということはアルトゥールは知る由もない。


「まあ構わないが……飼うつもりか? もしそうなら、ちゃんと躾はしてくれよ」

「はい、もちろんです!」


 ぴしっと礼をしてみせたレネットに、アルトゥールはくすりと笑った。


「ああそうだ、お前に新しいシーツを持ってきた。これで少しはマシだろう」

「ありがとうございます」

「もう今日は遅い。ゆっくり寝て、明日から綺麗にすることだな」


 ピカピカで真っ白なシーツを受けとり、レネットはぺこりと頭を下げた。そんなレネットの頭を、彼はわしゃわしゃと撫でた。

 気づいてはいたが、やはりアルトゥールは面倒見が良い。この人に会えてよかったと、今日一日を振り返ってしみじみ思うレネットだった。


「……ふぅ、びっくりした。でもアルトゥールさん、優しいなぁ」


 とりあえずシーツを敷くと、あれほど汚かったベッドが幾分とマシに見える。若干埃っぽい匂いがするが、直接触れることはないから許容範囲。

 すっかり暗くなった部屋で、レネットはぼふっとベッドに倒れ込んだ。


「明日から掃除しないとね」

「掃除ねえ。アタシも手伝うよ」

「ほんと? とても助かる!」


 レネットの頭の近くに、真っ白な毛玉が近づく。ふわっと空気を丸ごと包みこんだような、そんな優しい感触が頬に触れる。


「ねえ、エル。そういえばなんで猫なの?」

「まずかったかい?」

「ううん、とっても素敵」


 レネットはその顎に触れた。エルヴィーラは気持ちよさそうに目を細めた。

 毛並みがすごくなめらかで、今まで触ったどの物体よりも気持ちいい。


「精霊との関わりを隠したがっている――そう、他の精霊から聞いたからね」

「ま……まあ、そうかも」

「だから、誰かに見られても問題ない適当な動物の姿にしたのさ。実際、助かっただろ?」


 エルヴィーラが猫の姿を取っているのは、どうやらレネットへの配慮だったらしい。レネットが聖女であることを隠したがっていることは、周囲にいる精霊にもおそらく伝わっていたことだろう。


「ふふ、とても似合ってるよ。精霊ってこんなこともできるんだね」

「この姿も、ヒトの姿も、どちらもアタシにとっちゃ同じだよ。魔力で形どった仮初の姿さ」


 エルヴィーラはその情報を聞き――精霊であることがバレない、かつレネットの側にいても怪しくない方法を考えた。それがこの姿だったというわけだ。


「とはいえ……まさかレネットが聖女をやめる日が来るとはね。アンタほど精霊に好かれるヒトはいないというのに。ああ、もったいない」

「は、はは」


 だが所詮は、下位精霊からの又聞き。彼らは複雑な言葉を操ることまではできない。そのため、レネットが聖女をやめた理由までは伝わっていなかったようだ。


(追放された……なんて言えないよね?)


 エルヴィーラがもしこのことを知れば、どう思うだろうか。

 おそらくはレネットの身を案じてくれるだろう。だが同時に、敵意というものがルミナス王国へと向いてしまう。


 エルヴィーラは、曲がりなりにも大精霊。今はこんな愛らしい見た目をしているが、その力は膨大だ。彼女が本気を出せば、冗談抜きで街一つくらいなら簡単に壊滅し得る。


 別にレネットは、王国をむやみに貶めたいとは思っていなかった。

 確かに追放されたことは悲しいし、怒ってはいるけど――それと無関係の人々を巻き込むのは違う。

 それに、ルミナス王国は故郷である。まだまだ未練たらたらだし、なくなってほしいとも思わない。


(理由を言うのは、もう少しほとぼりが冷めてからにしよう)


 レネットはそう心に決めた。


「あんなに楽しそうだったのに。もしかして……何かあったのかい?」

「大丈夫、私は元気だよ」


 妙に鋭いのか、それとも鈍いのか。いまいち分からないところがヒヤヒヤする。

 だがレネットがそう答えると、彼女は「そうかい」とだけ言って表情を緩ませた。


「……というかアンタのよく言う『友達』なら、先にその友達のアタシへ相談するのが筋ってもんじゃないのかい?

 レネットがいなくなったのに気づいて、アタシゃ本当にびっくりしたんだからね!?」


 エルヴィーラが思い出したかのように怒りを見せるが――当のレネットは、すでに夢の世界へと旅立っていた。

 色々なことがあった一日で、思いの外疲れが溜まっていたらしい。体の疲れは聖女の魔法でどうにかなるかもしれないが、心の疲れまでは取り切れない。事切れたかのように突っ伏すレネットの姿に、エルヴィーラはふぅとため息を付いた。


「……ああ、仕方のない子だ」


 その寝顔は、いつもの安らかなものだった。こんなの、怒るに怒れないだろう。

 そんな彼女の横で、エルヴィーラもゆっくりと目を閉じる。

 精霊であるエルヴィーラは、睡眠は特に必要としないのだが、


(悪くないな)


 人型だと同じベッドで眠るというのは、難しいし、そもそもそれをしようとも思わなかった。

 だが今なら一緒にいれる。静かな空間、夜が明けるまで。

 母親のいないレネットにとって、もはやエルヴィーラは「友達」以上の存在であることは間違いない。それはエルヴィーラにとっても同じことだろう。

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