CHAPTER 7
「近隣住民から苦情が出ておりましてね」
肥えた体格に、優しい笑顔の中年男性。
彼は、頭の剥げた初老の男性ににこやかな顔のまま、そう告げた。
「苦情ぉ?」
「異臭がする、とか」
「そぉかい…で?場所は」
「秋津理化学研究所です」
肥えた男‐ナエクサは、にこやかな表情を崩さなかった。
「行かなきゃならんかなぁ」
「近隣の交番から、今警官を向かわせておりますが…場所が場所ですからね。多分、事故でもあったんじゃないですかね」
「それなら、科捜研の仕事だろぉ」
「通報があった以上、我々も行かねばならぬかと」
「相も変わらず、にこやかなことでぇ」
「ツジムラさん。出ましょう」
「あい…面倒くさいなぁ…仕方ないなぁ」
頭の剥げた初老の男性‐ツジムラは、面倒くさそうに腰を上げた。
「遅い時間だのにい」
と、小さく悪態をつきながら。
秋津理化学研究所。
もはや、ここは研究所としては機能しないだろう。
それだけ、彼らの犯した罪が刻んだ代償は大きなものだった。
残された職員は、サクマ、イズミ、エツコ、トモエ、そしてアモウの五人。
無論、公休日が当たっていて出勤していなかった職員もいるにはいるが、それとてこの人数、そして半壊した設備投資では、研究の継続など不可能だろう。
つまり、彼らは失業も同然となったのだ。
「…研究所を、捨てることとします」
薄暗い会議室で、サクマは生存者四人へ顔を向けた。
「これ以上、ここに居ても意味はない。それに、例のラボには職員達の死体が山積みだ。そろそろ、充満してきた腐敗臭にも耐えられない」
「アモウくん。心配しないで。秋津理化学研究所の研究施設は別の場所にも幾つか点在しているわ。わたしは、そこで引き続き研究を続ける」
「……僕は…いつまで戦わないといけないのでしょう」
「……」
「僕の帰りを待っている妻や、娘には…どういう顔で向き合えばいいのか。それが頭から離れないんです。シロンとアキノ…二人の命を奪ってしまったことも」
「でも、そうしてくれなかったら…」
仮面は脱いでいるものの、CELLスーツを着込んだままでいるアモウに、エツコが口を挟む。その隣には、トモエも気まずそうな顔をして立っていた。
「わたし達が、死んでいたのよ」
「エツコさん…」
「アモウ君、あなたも見たでしょう。あれはもう人間じゃない。行動も思考も…全て異常になった怪物…人の命を奪ったなんて言い方は…」
「…分かっています。ただ、気持ちの整理が追いつかないというか…」
「ごめんなさい…」
「?」
「エツコさんもわたしも…助けてもらった。それなのにわたしは、あなたを化物だのなんだと…」
「…」
「本当に、ごめんなさい。あなたは何も変わっていなかったのに…」
ぽろぽろと、トモエが涙を流し始める。その光景に、アモウの心の中に溜まった汚泥物を洗い流されるような気持ちになった。
「…心まで変わってしまった時は、僕を殺してくださいよ」
「縁起でもないことを言わないで!」
トモエが、向き直る。
「確かにあなたは辛い選択をしたかもしれないけど…あなたのままでいてほしいの!!心が変わってしまうなんて…言わないでよ…」
「…すみません」
バツの悪そうな顔をして、アモウが目を閉じる。
「CELLスーツは順調に機能しているようね。じゃあ、サクマ君。とりあえずは理研のワゴン車に無事な機材を載せましょう」
「ええ…しかし、エツコさんやトモエさんは…」
「わたし達も同行させてください。どのみち、何処に逃げても危ないんでしょう。それに」
「それに?」
エツコが、アモウの手を取る。
「彼には仲間がいる…私達は、そうありたいですから」
「わたしも」
エツコとトモエの優しい眼差し。
アモウは、込み上げる何かを必死に堪えようと今一度目を瞑った。
「約束します…仲間は…僕が守り抜くと…」
「俺だけど」
《アモウ?随分遅い時間まで掛かっちゃってるじゃない…アユ、もう寝たわよ》
「ごめん。実験が長引いちゃってさ。明日には帰るから」
《定時には上がれるって、言ってたじゃないの》
「悪かったよ…でも手当てもつけてくれるし、明日には必ず帰るから」
《…まあ、連絡くれたからよかったけど。心配したんだからね》
「うん…まあだから、その、アユにはよろしく言っといて。いつものホットケーキ、買って帰るからって」
《何かあったら、絶対連絡してよ?いい?》
「分かってるよ。じゃあ…」
通話ボタンを切り、アモウがスマートフォンを仕舞う。
「奥さんには連絡出来たの?」
「ええ、まあ…」
車庫から戻ってきたイズミが、複雑そうな表情をしていた。
妻には何とか話をつけたが、実際のところ本当のことは話せていない。
話せるはずがないのだ。
信じてもらえるかも怪しいし、信じたら信じたで、自分から離れていってしまうかもしれない。結婚してもう7年目だが、自分は変わらず妻を愛している。娘も同じだ。おとうさん、おとうさんと散歩や風呂をせがんでくる愛らしい娘が、自分を気味悪がって離れていくという現実は、想像しただけでも打ちのめされる気持ちになる。
「イズミさん…早いとこ、お願いします」
「頑張るわ。あなたのこと、私も嫌いじゃないし。惜しいのよ…無くすには」
「…物みたいな言い方はよしてください」
呆れたように溜息をついて、足を車庫へ向けようとした時であった。
「何ですか、あなたがたは!!!」
向こう側から、サクマの怒号が聞こえた。
「何でしょう…今の?車庫か?」
「気になるわね…」
足早に向かう二人の前に飛び込んできたのは、警官に包囲されたサクマ、エツコ、そしてトモエの姿だった。
「これは…」
「あぁ…また二人ほど出てきましたなぁ」
頭の剥げた初老の刑事らしき人物が、面倒くさそうに呟く。
「すみませんなあ、遅くに。あたしゃあね、生田警察署のツジムラっちゅうもんです」
「…警察の方、ですか…」
「すんませんが、名前聞いてなかったですねえ?あんたはあ?」
「秋津理化学研究所所長のサクマと申します」
「じゃあ…サクマさん。悪いけど、ガサ入れさせてもらいますわあ」
「…そういうことですか。ちょうどよかった。私も、あなたがたには連絡を取ろうと思っていましてね」
「ほうぉ?どういうことか説明してもらいましょかあ?まあ、こっちは色々もう掴んどりますがねえ」
ツジムラはくちゃくちゃした言い方で、しかし油断ならぬ目をサクマヘ向ける。
「近隣住民から苦情がありましてねぇ。おたくのとこから、異臭がするとのお」
「…私もその件でお会いしたかったんですよ」
「建物の奥のとこの壁…ちっこい穴空いてますよねえ?なんぼにも有刺鉄線やらバリケードやらがありますけどお、そこから臭いますねん。人間の、死体の臭いがあ。腐敗臭っちゅうたら分かりやすいですかねえ」
その言葉には、サクマだけでなく皆が固唾を呑んだ。
「…ツジムラさん、ありましたよ。半壊していた壁から警官隊と中へ踏み込みました。大量殺人です」
「ご苦労さあん、ナエクサくん」
物陰から現れた、肥えた中年の男。
死体を見たという割には、目を細めたにこやかな顔つき。
ツジムラといいナエクサといい、刑事らしく隙のない雰囲気だった。間違いなく、現場慣れしている。
「…じゃ、説明してもらいましょかあ?サクマさん」
「勿論。ですが、信じてもらえるかどうか…」
「ああ〜…それはね。こっちで決めることですわあ。あい!」
惚けた口調だが、あからさまにツジムラはサクマを疑っているようだった。
「申し訳ないけどお、奇天烈なこと言うて誤魔化そうとしても、あきまへんでえ。あたしら、これでも警察ですねえん」
「奇天烈なことを話すことにはなりそうですが、誤魔化すつもりはありません」
「ほお?随分と余裕でんなあ」
「しかし、私の部下達は関係ない。私が一人で署に向かいましょう」
「それはいけませんよ?」
ナエクサが、にこやかなまま前に出る。
「理由がどうであれ、ここに残っていたのはあなたがたでしょう。話は聞かせてもらいますよ、全員ね」
「私が、話すと言っているのです。責任者は私なのですよ」
「駄目だと言っているでしょう」
「それ以上いらんことしたらあ、公務執行妨害で逮捕しまっせえ?ええんでっかあ?」
ツジムラとナエクサの背後には、何人もの警官隊が立ちはだかっている。
こんな所でモタモタしている暇はないのに…!
サクマは、苛立ちを覚えた。
「とにかく。来てもらいましょかあ?秋津理化学研究所の皆さんん?」
「私一人では都合が悪いのですか…!」
「あんた一人の方があ、他の皆さんにとっては都合がええんでしょおけどお…あきまへんな。あい、連行せえ」
ツジムラの合図に従い、警官数名がずかずかと前に出てくる。そのうちの一人が
「!やめてください!!」
「動くな、公務執行妨害で逮捕されたいのか」
トモエの手首を掴み上げていた。
だが、その様相に
「…触んなよ。いきなり女性の手を掴むなんざ、迷惑防止条例違反になるんじゃないのか?」
「はあ?」
アモウが、警官の手を払い除ける。
「悪いことは言わない…関わらんほうがいいぞ。命が惜しければ」
「何だお前?女を前に急にイキりやがって…警官をナメるとどうなるか分からせてやろうか?」
警官が、拳銃に手を掛ける。
「アモウさん、無闇に相手を挑発しないでください」
「所長さんの言うとおりだぞ?国家権力を相手にしたらどうなるか分かってん…」
「どうなると言うんだ?」
額が割れ、瞳が赤黒く染まったアモウの、怒りの形相。
その鬼気迫る表情に、警官は悲鳴を上げた。
「ひっ!!!」
「もう一度言っておく…関わるな。あんたらは、スピード違反した奴らでも捕まえて点数稼ぎしてりゃいいんだよ…」
「な、何だお前…」
「アモウさん!挑発しないでくださいと言ったはずです!!」
アモウの行き過ぎた威嚇に、サクマは声を荒げて檄を飛ばした。
「…なんとなく、分かって頂けたと思いますが、事情は一刻を争うのです。ツジムラさん、後で必ず私が署に向かいます。ですので、今は彼らだけでも…」
ツジムラが、鼻で笑う。別段、驚いていないようだった。
「関わらんほうがいい。んなこと分かってますねん。せやからこそ、おたくらには話を聞いといた方がええでっしゃろお?住民の安全、守るためですねんからあ」
「あなたは、先程彼に起きた変化を見ていなかったのですか!?確かに秋津理化学研究所では、悍ましい事故が起きた…しかし、彼もまた被害者の一人なんですよ!?そんな者にまで疑いを掛けるのですか!!」
「…どんなからくりか知りませんがねえ…今更、んなもんに驚くわけないでしょお。どれだけの場数を、あたしらが踏んできたと思てますねん」
「そうですか…なら仕方ないですね。話しても無駄だということだ。まるで、我々の話を聞こうとしない」
「サクマ君、あなた何を…」
「イズミさん。車、出す準備を」
「ええ?」
「ここを離れるんです。エツコさんやトモエさんも早く」
キビキビとした表情で、指示を出してゆく。イズミは困惑しつつも、手早くワゴン車の運転席に滑り込み、キーを回した。
「な、何を貴様ら…」
「もう、やめておけ。何度言えば分かるんだ」
「お、お前っ…騙されんぞ…そ、そんな特殊メイクで警察が…こ、こ国家権力が」
「…本当にやめたほうがいいぞ。俺の顔が特殊メイクだと思えるうちにな。悪いことは言わない。関わるな」
「ぜ、善人ぶりやがって…」
「アモウさん?でしたかな」
たじろぐ警官を尻目に、今度は、ナエクサが前に出る。
「申し訳無いが、車を出させるわけにはいかないのですよ。これ以上妙なことをしたら、あなたがたには偽証罪の疑いも掛けなくてはならなくなるのでね」
「あんたらも本当にしつこいな?見ただろう?あの死体の山を」
「偽証罪になりますよ?」
「っ…俺がこうなったのも、あの死体の山が出来上がったのも、ある実験が事故を起こしたせいだ。だから、関わるなと言ってるし、事が済んだら俺も署に出向いてやると言ってるんだ…少しの時間もくれないのか?ここで不毛な時間を過ごしてると、危ないんだ」
「偽証罪になりますよ?」
「アモウさん、無駄です。相手方は我々を疑って掛かってきている…どのみち、従えば我々は全員拘束されてしまうでしょうし、ここは…」
「…分かりました」
目配せをした後、踵を返す。
サクマは助手席へ。
アモウは、後部座席へ滑り込もうとしてー
「逃がすか!!」
先程の警官が、たまらず発砲する。
放たれた弾丸は、アモウの足下のコンクリートに突き刺さっていた。
火薬の匂いが、雨に重なり、やがて消えた。
「に、逃さんぞ…」
「…やめとけよ。威嚇射撃もろくにしたことがないんだろう?定まらぬ照準で銃など向けるな…」
「やかましい!!撃つぞ!?次は本当にな!?研究員風情が、偉そうに…」
「アモウさん…これ以上は看過できまへんなあ。重要参考人っちゅう形で来てもらいましょかあ?」
「…話の分からねえ人だな…今は関わるなと、もう五、六回は言ってるぞ!!まだ分からねえのか!」
「…ナエクサ。拘束や。こいつら全員なあ」
「ですね…」
にこやかな表情のまま、ナエクサが拳銃を構える。
それを皮切りに、他の警官も同じモーションを取った。
「馬鹿野郎共がっ…今はそれどころじゃないってのに…!!」
「アモウさん!早く!!」
後部座席から、トモエがこちらを覗き込んでいるのが見える。
アモウは素早く横の座席に座ると、勢いよくドアを閉めた。
「…イズミさん、出してください!」
「オッケー!」
サイドブレーキを下ろし、イズミがアクセルを吹かせる。
ワゴン車は、そのまま発車した。
「止まれっ…ううわっ!?」
立ちはだかる警官達をものともせず、ワゴン車はスピードを上げる。
左右に流れるように振れた警官達を尻目に、ワゴン車は夜の街へと消えていった。
「…手間やねんホンマにい…ナエクサ。追うでえ」
「公務執行妨害に偽証罪。そして…道路交通法違反。重罪ですね」
幾重ものパトカーが、けたたましいサイレンを響かせながら後を追う。
テールランプの明かりが、夜の風に靡いていった。
-Junction
Akitsu RIKEN Staff Profile File 7
Name:Etsuko Esaka
ID No:02086255
Age:57
Birthday:5/5
Height:155cm
Weight:51kg
Blood type:A
Affiliation:Accounting department
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます