CHAPTER 6
「待ちなさい、トモエちゃん!」
息を切らしながら、照明も絶え絶えの廊下を走るエツコ。その先で、トモエが足を縺れさせて転倒する。
「サクマさんは、帰れって言ったじゃないですか!」
「イズミさんも言ってたでしょう!敵が来ていると!無闇に一人で歩くのは危ないわよ!」
「離して!もう、あんな化物と一緒にいたくない!わたし、怖いのよ!!もう沢山だわ!」
「トモエちゃん!」
またもパニックを起こしたトモエを、抱きかかえる。だが、彼女激しく抵抗した。
「離して!離してよ!エツコさん!」
「今は離さない!今は…」
「分からず屋!もうやめて!」
「騒いでるじゃん」
「「!?」」
二人の押し問答に割って入る声。
二人には、聞き覚えのある声だった。
僅かな照明が生きる暗がりでも分かる、ベリーショートの髪型に、美しくも中性的な顔立ち。
すらりとした足を、滑らせるようにしてこっちに歩いてきているその来訪者は
「アキノちゃん…」
「えへへへ」
不気味にニヤリと笑うアキノ。その顔には、幾重にもひび割れが起きていた。
「匂いがするのよね…人間と…あたし達のと同じ匂いが…」
「ま、まさか…イズミさんが言っていた敵というのは…」
「ごめんねぇ。こうなっちゃったからには、こうしなきゃならないの!!」
目が複眼化し、額から触角が突き出たかと思うと、アキノの身体は醜い化物へと変貌していった。
まるで、天道虫を思わせる姿をしていた。
「ギャァァァ!!」
その異様な姿に悲鳴を挙げるトモエ。
「移植手術受けたことを思い出したときはどうしようかと思ったけど…先のことは自分で考えなくちゃあ、ね」
「逃げるわよトモエちゃん!」
「出来るのかな」
迫るアキノ‐レディバグ・スプライトを前に、おろおろと立ち上がった二人は廊下を逆走し始めた。
「無駄なんだよ…ね!」
背中の翅を開き、ブゥゥゥンという耳障りな羽音を出してレディバグ・スプライトが滑空してくる。その鋭い鉤爪が、照明に照らされて鈍く光った。
「ぎゃうぅ!!」
「え、エツコさぁん…!」
肩口を切り裂かれたエツコが、横なりに倒れ込む。顔を上げたトモエの前に、敵は既に立っていた。
「遅い遅い。遅いっての」
「アキノさん…あなたも…」
「仕方がないっての。こうなったんだからさ…」
レディバグ・スプライトが、瞳を怪しく点滅させる。5つも並んだそれは、非常に奇怪であり、トモエを震え上がらせるには充分なエフェクトと言えた。
「トモエさん。運がなかったね。諦めなよ。あたしもお腹が空いちゃって、しんどいんだよ」
「こ、来ないで…」
「無理だよ」
「やめて…」
「無理なんだって」
「何処かに行ってよ!!」
「無理なんだっつってんだろぉが!!」
腕を振り上げるレディバグ・スプライトを前に、エツコを抱きかかえたままトモエが目を瞑る。
だから、嫌だと言ったのだ。
あんな実験になど、立ち会わなければよかった。
こんな死に方など、したくはなかった。
なのに…
そう思った、矢先のこと。
「ぐゥ!?」
「!?」
トモエの眼前にいたレディバグ・スプライトは、横薙ぎに吹っ飛ばされていた。
壁に叩きつけられ、苦しそうな声を出している。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
「…間に合ったみたいです」
「え?」
またも聞き覚えのある声。
そちらに振り返ると、またしても異形の姿をした何かが立っていた。
《アモウ…君…》
「え?…え?」
暗がりに光る2つの瞳。
それは、今のアキノのように悍ましい姿をした化物ではなかった。
《アモウ君…聞こえるわね》
「はい」
《そのマスクは貴方の脳髄と脊髄に直接作用して、セルアウトした状態の力を引き出すことが出来るわ…》
「…短時間で、よくこんなものを作りましたね…」
「…?いきなり蹴飛ばしてきたと思ったら今度は独り言…何なのアンタ」
何処となく蟷螂を思わせる機械的な仮面に、黒いレザージャケット。そして、左腕に備えた物々しい刃物といった出で立ちの乱入者に、レディバグ・スプライトが悪態をつく。
《備えあれば憂いなし、ってね》
「……はぁ」
《さっきも言ったけど、身体の方は、CELLスーツが抑制してくれるわ。どうしても気分が悪くなったら、ジャケットの薬瓶…予備のアンチセルゲノムを使いなさい》
「動きにくいのは、どうにかなりませんかね…僕が胸郭出口症候群を患ってるの、忘れましたか?」
《拘束具なんだから、多少は我慢して》
呆気にとられるのはレディバグ・スプライトだけではない。
トモエも、エツコも同様だった。
だが程なくして
「アモウ君…」
「え?」
何処となく、蟷螂の頭を思わせる仮面…その瞳が、また妖しく点滅を繰り返した。
「二人共…下がってください」
足下のスニーカーを見ても、彼がアモウであることに違いはない。トモエには、それが理解できた。
「はぁ?アモウちゃん?アモウちゃんなの?」
起き上がり、天道虫を思わせる頭を、首の根本から回す。
「何、そのカッコ。馬鹿じゃないの…」
「その声…アキノだな」
「あんたも、あたしと同じになったんでしょ?何で人間側についてるの」
「君と同じにしないでくれ…」
「同じでしょ?頭の中がザワザワして、あたしの接近が感知出来なかった?違う?」
レディバグ・スプライトが、くくくっと肩を揺らして嗤った。
「もう少し、スプライトとしての自覚を持ちなよアモウちゃん。あたし達は、もう今まで通りには生きられやしないの。こうなったからにゃ、生き方を変えなきゃ。ねえ?」
「…変えるつもりはない。少なくとも、今はな」
「あんたがそう思っても…世間様は認めてくれないよ!!」
仮面の下で、アモウは小さく驚いていた。
今朝までは普通の人間…その感性を持っていたアキノが、スプライトとなったことを受け入れ、新しい生き方を既に模索している。
セルアウトの進行が進み、完全に覚醒してしまうというのは、こういうことなのか。
「気付きなよ。そんな怪しい仮面を被って素顔を隠しても…その下には醜い顔を潜ませてる。あんたは、もうこっち側…化物なんだってことにさぁ!!」
鉤爪を携え、飛び掛かる。その突飛な動きにアモウは対処しきれず、右腕を薙がれてしまう。
「痛ぇ…!!」
受け身を取る心得も無ければ、武術の心得もない。
アモウは仮面の下で歯噛みしつつ、痛みを堪える。
「ふーん?結局硬いのは頭だけってことかあ」
「アキノ…!」
「たいそうな武器まで付けてるから、どれだけ強いかと思えば…なあんてことないさねえ!!」
「くそっ…」
《アモウ君。あいつの気迫に負けちゃ駄目よ》
「うるせえ!離れた場所からエラソーに通信ばっか入れるあんたに言われたくねえ!!」
シロンの時は恐らく蟷螂の闘争本能が作用していたのだろうが、今はこの拘束具がそれを抑制しているらしい。思ったように、眼の前の敵に闘志が沸かないのだ。皮肉なもんだと思った。
「くそったれが…」
「はん!対したこたぁないねえ!!」
「ぐう!」
横薙ぎに、爪を払われる。マスクのお陰で思ったより衝撃は少ないものの、非日常的な出来事に変わりはない。
「トモエさん…エツコさん…今のうちに…」
「アモウさん…でも」
「僕のことなんかどうだっていい…早く行ってくれ!」
「美しいねえ…自己犠牲ってやつ…?」
レディバグ・スプライトが、倒れ込んでいるアモウの首を掴み上げた。
「アモウちゃん。残念。あんたなら、分かってくれると思ったんだけどな」
「アキノ…」
「人間のままでいようとするなんて、それは愚かなことだよ。変わったことを受け入れな」
「ぐぅ!」
鳩尾に、またしても一発お見舞いされる。
「二人…共…早く」
「トモエちゃん、行きましょう!」
「でも…アモウさんが…」
「早く行くわよ!彼の気持ちを無駄にしないで!!」
強引に手を繋いだエツコが、痛む肩を押さえつつも、トモエと共に横を小走りに去っていった。アモウは、マスクの下で安堵の溜息をついた。
「あーあ。見捨てられちゃったね。あんた」
「…元々今まで通りに生活できるなど、思っちゃいない」
「でも、あたし達の側には来ない、と?矛盾してるんだよ!!」
何度も、爪が振り下ろされる。
その度に、ジャケットに生傷が幾重にも刻まれていった。
「アモウちゃん。あんたからは、まだ両方の匂いがしてるんだよ」
「何だと…」
「人間の匂いと…あたし達と同じ匂い!そら、そそられるわぁ!!」
再度、顔面を殴打されたアモウは、そのまま壁に叩きつけられた。
「食べてやるよ…お望みなら」
「アキノ…!本当に変わってしまったのか!?人間に戻りたいとは思わないのか?」
「戻れないと理解してるんだからこそ、別の生き方を探してるんだッ…こうやってな!!」
「ぐぁ!!」
「ゴンダのことは恨めしく思うよ…だが、それとて何も変わらないよ…この現実だけは!!自分の明日は、自分で見つけなくちゃいけないんだ!!」
「だとしても…」
「あ?」
レディバグ・スプライトの突き出した爪を、アモウが左腕のブレードで受け止める。
「…これ以上の犠牲者を出すのは…間違ってる!」
「綺麗事ぉ!綺麗事なんだよ!!」
「黙れ!!」
「うっ!?」
意思を伝達させる。
左腕のブレードが、シャコンッと音を立てて開いた。
《''エクスターミネーション"単分子ブレード。あなたの左腕はセルアウトの進行が特に進んでいる箇所…今なら、それを使えるはずよ》
「蟷螂呼ばわりするなイズミさん…」
「うっ…ううう!?」
腕を基部に挟み込まれたままのレディバグ・スプライト。彼女は、自分のそれが起動したブレードに挟み込まれてゆく様を目の当たりにした。
「もう、僕の知ってるお前じゃないんなら…」
「ひッ…」
「駆除するしかない…でも」
「なっ、何を…」
「お前が人間としての明日を探すことを選ぶなら…僕は…俺はお前を手に掛けたりはしない」
「…何のつもりだか知らないけど、どのみち世迷い言だね…なんべん言えば分かるのさ!!」
レディバグ・スプライトが、5つの瞳を点滅させる。
「スプライトとなった事実を受け入れなきゃ、やってられないの!!そして、今のあたし達に必要なのが、その人間!!捕食しなきゃ、あたし達は生きていけないのよ!!」
「そんなことはないだろう!!」
アモウが、苦々しく答える。
「イズミさんやサクマさんは…俺達の身体を治す為に動いてくれている…勿論確証は無いが、俺はそれに賭けてみたい…だから…」
「だから…?」
「アキノ!目を覚ませ…!人間だった今朝までのことを思い出してくれ!」
「馬鹿なことを言うな!!」
「アキノ…」
「目を覚ませ、だって!?くだらない!あたしの目はとうに覚めているわ!この身体になった時からね!今更人間にだなんて戻りたくもない!!」
「くっ…」
「今に見ていなよ?あんたの大切なトモエさんも…他の奴らも…あたしが食い散らかしてやるわ!!何れはあんたの奥さんや、子供もねえ!!!」
「貴様ァっ…!!」
「スプライトの自覚も持てないあんたにゃ、何も出来ないってことよ!!中途半端な下等生物のアモウちゃんがよ!!お前は、ここで死ね!!虫ケラ野郎!!」
「…だったら」
「ぎぇやぁぁぁぁぁぁぁあッ!!?」
嫌な音を立てて、レディバグ・スプライトの右腕を捕縛していたブレードがギロチンの如く落とされる。
次の瞬間、レディバグ・スプライトの右腕が宙を舞っていた。
「あ…あぁぁあ…!!う、腕が…ウデガー!!」
「こうすることが正解だとは思えない…!だが」
「く、クソッタレ!!馬鹿野郎!!誰に手を挙げていやがるんだ畜生めぇぇぇ!!」
右腕を失ったレディバグ・スプライトが、苦悶の悲鳴を上げる。その断面からは、血液が帯びたしく流れ出ていた。
「あ、アモウ…この野郎…も、もう手加減してやらねぇぞ…許さ…い、痛えぇぇ…」
「俺に出来る限りのことをする!アキノ…!もうお前に明日は無い…!!」
「ふざけるなっ…ふざけるな!ふざけるんじゃないわよ…こんな…うう…よ、よくも…お母さんからもらったあたしの腕を…」
「……」
「身体は変わり果てても…あたしはあたし…生きるための方法は自分で探すしかないんだ…それなのにぃ!!」
「…諦めろ。多分、お前は俺には敵わない。機械的な措置とはいえ、俺は俺に埋め込まれた力をフルに発揮出来ているようだし、この状況から見ても、もうお前に出来ることはないだろう。人間としての明日を捨てたお前には…な」
「何が人間としての明日だ…腕を…あたしの身体を刻んでおいて…」
血は、止まらない。
だが
「落とされた分、きっちり返してやらァね!!」
切断面から、突如オレンジ色の液体が噴出する。それは、アモウのマスクに飛散った。
「ぐっ…何だ!?何をしたんだ!」
《アモウ君。天道虫は、身の危険を感じると関節の節々から刺激性の強い体液を撒き散らす能力を持っているわ…アキノさんのそれも、恐らく…》
「くそっ…視界がっ」
マスクに付着した汚物を、手で払う。それでも、スーツの一部は腐食して溶解しているようだった。
「死ね!アモウ!!」
胸部の、昆虫の足のような触手を、力一杯に広げる。それは、アモウ目掛けて一直線に伸びてゆく。
「化物めっ…いよいよ人間を捨てるような真似を」
"エクスターミネーション"単分子ブレードを広げ、それらを寸でのところで切り捨てる。
切り捨てられたそれらは、ボトボトと床へ散らばっていった。
「ハァハァ…くそっ…目が掠んできやがっ…」
レディバグ・スプライトが、膝を折る。
切断面から流れ出る血は、流れ出るままだった。
恐らく、このままだと
「…失血死するぞ」
「どうして…こうなっちゃったんだろうなあ…」
「…」
「あたし…望んじゃいなかった…こんな人生…」
「…だれもがそう思うだろう」
「あたしまで…被験者にされていただなんて…」
「日常を奪われたのはお前だけじゃない」
アモウは、震える声を絞り出した。
「シロンも…俺も…皆が被害者だ。あたりまえの日常を、奪われたんだ」
「あたりまえの日常…」
「そして…今度はアキノ。お前がトモエさんやエツコさんから、それを奪おうとした」
「あたしが…奪う…」
「分かるか…セル・プロジェクトのせいで…携わった人が皆、不幸になった」
「不幸…」
「だから俺は…したくもない事をすることにした…これ以上…他の人があたりまえの日常を失わない為に…ゴンダさんに復讐する為に」
「復讐…?ははっ…なにを…」
「アキノ…ゴンダさんはどこだ?同じ研究チームにいたんだろうが?言え」
「知らねえよ…そんなこと」
「嘘じゃないだろうな…」
「無駄だよ」
「何?」
レディバグ・スプライトが、仰向けに倒れ込む。それでも、顔を上に向け、口と思われる部位から汚物を吐出した。
「アモウちゃんよ…被検体となった人間が…あの場にいた全員だと思ったら…大間違いだよ…」
「…どういう意味だ」
「そのまんまの意味さ…ゴンダは…セル・プロジェクト以前に…同じような措置を施した…人間を…ばら撒いてるってことさぁ…」
「…」
「今にわかる…これからも…スプライトは、あ、溢れ出て…来るだろうね…」
「出任せだろうが…」
「ほんっとに疑り深いんだね、アンタって人は…」
息も絶え絶えになりながら、レディバグ・スプライトの顔が崩れ落ちる。そのヘドロのような汚物の下には、アキノの美しい顔が見えていた。
「くくくっ…滑稽だよ…アモウちゃん。あたし達の1号機が生まれた時点で…この世の未来は決まってたのさ…」
「何の為に…何の為にそんなことをしたんだ!!」
「さあて、ねえ…あたしにゃ分からんが…でも…あんたの言う…したくもないことってのが…狩り、なんだとしたら…あんたの、い、行き着く未来は…明日は…」
「…?」
「救いようのない…終わりようのない…地獄…っやつ、かも…ね…」
そう言い切ると、事切れたレディバグ・スプライトは床に顔を沈めた。
もう、動かない…アキノだった悍ましい怪物は、その生涯を終えたのだ。
「地獄……」
その呟きを聞いていた者がいたかどうかは分からない。
だがアモウは、自分の置かれた状況…そして、ゴンダの仕組んだ野望の規模に、只々絶句するしかなかった。
-Junction
Akitsu RIKEN Staff Profile File 6
Name:Akino Aso
ID No:09268444
Age:25
Birthday:8/10
Height:159cm
Weight:43kg
Blood type:AB
Affiliation:biological research laboratory
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