CHAPTER 3
苦痛に悶えるアモウの左腕から現出した鎌は、まさに大蟷螂の前肢そのものだった。
羽化して間もない蟷螂を思わせる、透明度の高い乳白色の鎌。それが、アモウの意思とは関係なく切っ先を伸ばしていく。
「ぐっ…これはあっ、ああ…!!?痛えぇっ……!!」
「抗うだけ無駄なんだと、どうして分からないかな…」
憐れむような表情で、ゴンダは百足の怪物‐センチピード・スプライトを一瞥した。
「あれは完全に失敗作だ。セルアウトしただけマシかもしれんが」
「何を…言ってる…ううっ…」
「昆虫じゃなくて、節足動物の百足を使ったのがマズかったかあ」
「何を言ってるんだと…」
アモウの目が、血走った。
「聞いてるんだぁ!!!」
叫んだ手前、
「ぐふっ…」
蹴られた脇腹に痛みを覚える前に、壁に叩きつけられた。
「トウコっ…お前…っ!!」
「うるさい声を出さないでよ」
「何っ…」
ゴンダとトウコの背後から、センチピード・スプライトがゆらりゆらりと迫ってきているのが見えた。
全身を百足の意匠が覆い、更に左肩からもバカでかい百足が生えている。
もう、シロンの面影は何処にもなかった。
「ゴンダさん…あんたはこんなものを作る為に…」
「こんなもの、だと?言い方がひどいんじゃないか…?」
「あ、アモウさん…」
トモエとサクマも、ただ固唾を呑むことしか出来ない。
この数分足らずで起きたことが、頭で処理しきれないのだ。
「言っただろ?人間として現代医学の限界にどう立ち向かえばいいのか…それが、この答えなんだよ」
「何だと…どういう…ぐっ…うっ」
また、身体が熱くなる。激しい頭痛がさらなる追い打ちをかける。
どうなってしまったんだ、自分の身体は?
いや、答はとうに分かっている。
ゴンダが、自分の知らぬ間に自分の身体に昆虫…この場合は、蟷螂の遺伝子を移植していたのだろう。
知らず知らずのうちに、自分も被験者の一人にされてしまっていたのだ。
「人間に昆虫の遺伝子を移植し、そして進化を促す。あながち、それは…まぁ、間違いではないよ。理屈としては」
「進化…これの何処が進化なんですか…!?」
「姿形を見て判断しちゃいけないよ、サクマさん。被験者の姿や思考が、人間のそれを保ったまま進化を果たすだなんてことは、おれは一言も言ってないよ?」
「見苦しい言い訳をするのですか…!ここに来て…」
「言い訳でもなんでもないよ。言ったろ。適合率…そして覚醒までに掛かる時間には個人差があるとね」
「何を馬鹿な…」
「様々な昆虫のDNAデータをサンプルとして用意して、かつこれだけ大勢の人間に移植手術を施すのには骨が折れたよ。人間一人一人顔が違うように、DNAも違うわけだ。事実、拒絶反応を起こした奴らが殆どだったしね。その結果があれですよ」
サクマは、辺りを見渡して苦い顔をした。
それは、覚醒することなく突然死を迎えた犠牲者の成れの果て。腐食し、息絶えた身体が、そこかしこにあった。
無事なのは、ほんの一握りだけだ。
「これだけの人の命を奪っておいて…!結局、私達を欺いていたということですか!」
ゴンダは、傍で蹲ったままのアキノを一瞥し、今度は後ろに佇んでいるゼフィリティス・スプライトと、センチピード・スプライトを一瞥して続ける。
「だからね、サクマさん。誰もが適合出来るわけじゃあ、ないんだよ。おれは殺しがしたかったんじゃない。実験は成功には違いないが、正直、これでも予想の半分以下だ。革新には犠牲が伴う。そう割り切らなきゃ、次のステップには進めんのさ。前にも話したろ?あ?」
「ゴンダさん!!どうしてこんなことするの!?トウコさんも黙ってないで、なんとか言いなよ!!」
泣き崩れそうになりながら、トモエがトウコを睨みつける。だが、その腰巾着は悪怯れることなく鼻を鳴らした。
「まだ分からないの?これがゴンダさんの提示した、神聖な実験だと」
「ふざけないで!!アモウさんまで巻き込んで…」
「じゃあ、そのアモウにいつまで寄り添ってあげられるのかしら?そいつの顔を見てごらんなさいよ!」
「えっ…」
蹲っているアモウ。その顔を覗き込んだトモエは、忽ちのうちに悲鳴をあげた。
額から触覚のようなものが生え出し、充血しきった、そして複眼となった瞳。肌はひび割れ、その合間からは黄緑色の体繊維が見え隠れしている。
もう、人間じゃない。
トモエは、へたり込んだまま後退りを始めた。
「ほら。そうやって、セルアウトを起こしてる。覚醒までどのくらいの時間を要するかは分かんないけど、何れはそいつも変わってしまうのよ?身も心も?それでも、今まで通りにそいつと仲良くしてあげられるの?ねえ?」
トウコの煽るような口調と、アモウの目に見える変化に、トモエはやがて小さく震え出した。
「いっ、いやっ…」
一歩、また一歩と下がる。
「トモエ…さん…?」
「嫌っ!!!来ないで…来ないで!!バケモノーっ!!!!」
白衣を翻し、血相を変えたトモエが部屋から走り出てゆく。
アモウは、その光景を呆然と見つめていた。
「バケモノ…俺が…!?」
「はっはっは!!!ほおら、そうなるんじゃないの!」
トウコが、満足げに手を叩いた。そして馬鹿にするように、なめ回すような視線を向ける。
「アモウ…あんたにとっても、今日はブレイクスルーよ。ゴンダさんに感謝することね」
一連の流れを見ていた他の生存者達も、アモウの変異に顔を引きつらせ、何かコソコソと話し合っているのが見て取れた。
不思議と、男性職員のみが生存しているようだった。
少なくとも、現段階では。
「わっ…!ぎゃぁあ…」
間もなく、センチピード・スプライトが不意に背後を振り返る。その先には、ゴンダの遺伝子移植手術に選定されずにいたであろう、生存者たる男性職員達。
「…や、やめろ!やめさせろ!!」
彼らのうちの一人が、ゴンダへ抗議を図るが、彼はそれを受け容れない。
「ギャァァァ!!」
ある一人の男性職員の頭部が、そのまま食いちぎられる。血液が噴出し、頭のない胴体がそのまま床へと倒れ込んだ。
「セルアウトを起こした被験者は、人間を捕食するんだ。正確には生き物全般。昆虫の本能ってやつかな」
「ゴンダ…さん……」
口が裂け、左右から三対の牙が生えたアモウが、苦痛に耐えながら立ち上がる。その瞳は、悲しみに満ちていた。
「アモウさん…今は、あいつをどうにかするんだね。ほっとくと、いつまでもあいつは暴れ続けるぞ」
努めて、真顔で、真面目なトーン。ゴンダは、無表情のままそう言い放つと、踵を返しトウコを連れて悠然と部屋の出口へと歩いてゆく。
だが、アモウは納得できなかった。というより、ゴンダの真意が理解出来ずにいたのだった。
「ゴンダさん…ほんとうに…本当に裏切ったんですか!?」
そう、聞かずにはいられなかった。だが
「うるぅさい!!」
「ぐあ!!」
振り向き際に、トウコがまたしてもアモウを殴りつける。
その姿に、一瞬だけ蜂の化物のようなシルエットが重なり、そして、それはまた一瞬の内に消え去った。
「…雀蜂よ?わたしに勝てるわけないでしょ、このカマキリ男!!」
唾を吐き捨てるような勢いでトウコが毒づくと、二人は阿鼻叫喚の地獄絵図となったその場を去っていく。
その間にもまた一人、また一人と犠牲者が増えていった。
センチピード・スプライトは、大暴れの限りを尽くした。そこには、おおよそ知性と言えるものは残っていないように思える。
殴られ、嬲られ、叩きつけられる。
繰り返される幾重もの加虐が、死体の山をあれよあれよと作り上げていった。その副産物か、壁は半壊し、外界との境目さえ分からなくなる。曇天から降り出した雨粒が、部屋の中にも流れ込みだした。そして、それは広がる死体の山と、溢れ出た大量の血液に交じり合い、不快な臭いを発生させる。
更にこの騒乱に気を取られて失念していたが、アキノとゼフィリティス・スプライトも、いつの間にか姿を消していたことにサクマが気付く。
「不味いことになった…」
職員の大量死に、得体の知れない化物を外部へ放ってしまうとは。そして、前には蹲ったままでいる、手負いの部下。
言うまでもなく、異常事態だ。誰がかような結末を予測出来ただろうか。
この状況に、サクマは内心戦慄していた。間違いなく責任者としては失格だろう。この実験の稟議を下ろしたのは自分なのだから。
しかし、彼は人間としてはまだ失格者ではなかった。
「アモウさん…立てますか?」
「サク…マ、さん?」
「逃げましょう。あなたがどうなってしまうのか、それは私には分かりません。ですが、あなたはまだ人間の意思を残しているように思う…諦めなければ、なんとかなるかもしれません。さあ!」
保身に走ること無く、部下を気遣える誠実さこそが、サクマの美徳であることに違いはないのだろう。
肩を担がれる形で、アモウが立ち上がる。しかし、センチピード・スプライトも不意を突く形でこちらへ向き直った。
最早シロンの面影などないが、皮肉にも彼女のポニーテールを表すように後頭部からぶら下がった百足状の意匠が、ゆらりと揺れた。
次いで、シューという無機質な呼吸音が、耳に入る。
その牙が、ガチガチと音を立てた。
足下には、カタクラの首が転がっている。
かつての恋人の思いも虚しく、食われてしまったらしかった。
「カタクラ…!どうして…」
怖かった。
どうして、こんなことになるんだ!?
どうして…!?
今朝、家を出た段階ではこんな非日常的な出来事に見舞われる予想など出来なかった。
出来るわけなど、なかろう。
無情にも、赤黒い体躯を震わせながら、眼前の敵が知らぬが仏とばかりに、迫る。
その敵が、複眼特有の、幾重にも重なった視界に映る。
妖精とは、よく言ったものだ。
醜い。
反吐が出る程、醜い化物だ。
「…何故なんだ、ゴンダさん…」
非日常的なバイオハザードの最中において、アモウはもはや気力を奮い立たせることが出来なかった。
当たり前だ。
変わりゆく自らの肉体と、眼前の悍ましい姿をした化物、そして、純粹な死への恐怖。
その前では、足が竦むのも無理はない。
そのまま、歩み寄ってきたセンチピード・スプライトに、無抵抗のまま首を締め上げられた。
「アモウさ…ぐぅうわっ!!」
次いでサクマが、アモウを掴み上げている方とは別の腕で顔面を殴打され、壁へと叩きつけられる。苦悶の、声が漏れた。
「シュー……」
「ぐぅ…し、シロン……」
「シュー…シュー…」
恋人さえ手に掛けているのだから、理性など残っていないのだろう。
眼前のセンチピード・スプライトが、頭から生えた触覚をウネウネと動かしながら、掴み上げたままのアモウを覗き込む。
どうやら、本当に終わりのようだ。
まともに考えて、この化物から逃れる術がない。
自分も殴られ、嬲られ、最後には食われてしまうのだろう。
アモウは、期待するのをやめた。
映画のワンシーンならどうにかなるだろうが、これは現実なのだ。
抵抗して、どうにかなる状況ではない。
自分の身体に異変が起きていることには違いないだろうが、それでもこいつに太刀打ち出来るとは思えないからだ。
加えて、この加虐性。
シロンの意思はなくとも、明確にこの化物は殺戮嗜好に突き動かされている。
元々気弱な自分にとって、こいつとの相性なんてものは最悪だろう。
せめて、娘がお嫁に行くところまでは生きていたかった。それに、今年の12月には5歳の誕生日も控えている。
「一緒に…バースデーケーキ…食べたかったなぁ…」
複眼化した瞳が、一瞬だけアモウが生まれ持った、二重瞼の大きめの瞳に戻った。
涙が、溢れ出た。
「アカリ…アユ…」
妻と、娘の名前を呟く。
ーお父さん、早く帰ってきてね。
娘の、アユの今朝掛けられた声が頭に響く。
ごめんな。
お父さん、もう家には帰れそうにないよ。
ー無理しないでね。
妻が、アカリが毎朝笑顔で弁当箱を渡してくれたことも思い出した。
もう、彼女の手料理を食べられなくなると思うと、寂しい気持ちになった。
「そうだったんだよなぁ…」
アモウは今一度、悟った。
あたりまえの日常が、いかに幸せなものであったのかを。
そして、自分にとってのあたりまえの日常は、間違いなく壊された。
この悍ましい姿をした化物に。
いや
「ゴンダさん…」
友人に裏切られた現実を、今になってやっと突きつけられるような気持ちになった。
あの男が、自分のあたりまえの日常を壊したのだ。
「…モウさん!諦めてはだめだ…」
サクマの声も、いよいよ聞こえなくなりつつある。
いよいよ、終わりか。
死神の迎えが来た時に、その得物である鎌を携えているのが自分自身だというのは、笑えないジョークだと思った。
だが、アモウの中でこのまま終わっていいのかという疑念もまた、生まれつつあった。
妻子のことも勿論そうだが、自分をこんな目に遭わせたゴンダを許していいのか。
閉じかけた瞼が、僅かに開く。
「ゴンダァ…」
次いで、怒りの感情が湧き上がる。正当な報復をしても、罰(ばち)は当たらぬ気がした。
だったら…
「ギャァァァーッ!!!?」
耳を劈くような、悲鳴が轟いた。
「!?」
肩を押さえながら、サクマが顔を上げる。
そこには、右肩から腕までバッサリ切り落とされ、苦痛に悶えるセンチピード・スプライトの姿があった。
吹き出た血液が、辺りに飛沫となって舞う。
その中に、鎌を携えた死神が佇むのが見えた。その姿は
「アモウさん……」
血が滴る、左腕の鎌。
額の触覚は更に伸び、こめかみの辺りからは、蟷螂の目を思わせる突起が生えているアモウその人。
目は血走り、歪に歪んだ口元からは、より一層三対の牙が生え出ていた。
「遅かった、ということですか…」
呆然とするサクマよりも、突然の反撃に驚きを隠せないのはセンチピード・スプライトだった。
痛む肩口を押さえ、ギリギリと牙を鳴らしながら、自身の腕を落とした鎌を忌々しげに睨みつける。
「もう…どうにでもなれ、だ…」
低く、くぐもった声が、アモウの口から響いた。
-Junction
Akitsu RIKEN Staff Profile File 3
Name:Shiron Shikigahara
ID No:09268440
Age:25
Birthday:9/13
Height:153cm
Weight:47kg
Blood type:A
Affiliation:biological research laboratory
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