第7話 対策
ウエイターの送迎を断った翌週の土曜日。前週と同じ時間に莉乃は喫茶店へ向かう。向かう道の先に助けてくれると言ったパティシエは居ない。けれどきっとどこか見える場所に居てくれる。
そう信じて彼女はかつて見知らぬ男に掴まれた腕を庇うように抱えた。
街灯に照らされる薄暗い道の向こう。車道を挟んだ向かいから聞いたことのある笑い声が聞こえ足が止まる。パティシエさんが居るから、と思っても足が進まない。先週腕を掴んできた男の声。
「莉乃さん」
不意に背後から話しかけられて勢いよく振り返る。街灯に濃い色の制服姿が照らされ首を傾げる。
どこかで見たような人だ。
「はは、制服姿だと分からないか?」
からからと笑う男は警察の制服を着ている。警察の知り合い、と思いを巡らせてようやく辿り着く答えがあった。夕方の喫茶店で出会った甘味好きの男だ。
「ん、もう居なくなったか。さっき向こうに居たのが例の客引き?」
莉乃が振り返ると道向こうに居たはずの男二人は居なくなっている。警察の言葉に頷くと彼はふーん、と男たちが居たはずの場所を見た。
「ま、いいか。あと少し仕事したら俺も店行こ」
「あの、ありがとうございます」
話しかけたのはきっと客引きを追い払うためだろう。莉乃の礼に男は笑う。
「何の話かなあ。知り合い見付けたからサボリの口実にさせてもらっただけさ。気をつけてな」
緩く片手を振った男が見えなくなる頃には足が進むようになり、強く抱えていた腕も離れていた。
一度息を長く吐く。
あの場所に来る人は皆優しい。せめてこれ以上迷惑はかけたくない。
店に向かう足を動かすと思うよりも軽く、莉乃は変わらない心地で扉を潜った。
莉乃ちゃん。と、普段なら大きな声が聞こえてくるが今日は静かなマスターの声だけが聞こえた。
「先ほど莉乃さんが気になると言って出て行きましたよ。会いませんでしたか」
言葉に誘われてカウンター席に座ると何を頼まずとも紅茶が出てくる。昼の店で残ったものや試作品を出していると説明されたが出てくる品のどれも昼と遜色ない味に香り。
美味しい。思わず呟く莉乃の頭から一時の間ウエイターが消えた。
不意に店側、カウンター向こうにある扉が壊れるのではないかという勢いで開かれる。
「莉乃ちゃーん!!」
開いた扉と同じ勢いのまま駆け込んできたウエイターは同じ勢いで莉乃の背中に抱きついた。彼女から意図しない呻きが漏れマスターが叱りつけるもウエイターは聞かず莉乃から離れない。
「聞いてー! あのおっさん!!」
ウエイターさんにしては随分怒気のこもった声を出すなあ。莉乃は緩くなった腕の中から紅茶に手を伸ばした。
「あろうことか莉乃ちゃん助けた後あたしに職質しやがったのよ!!」
珍しく一つ咳き込む音がカウンターから聞こえた。大丈夫かとカウンターを見るとマスターが片手で口元を押さえ、片手を上げて大丈夫と示していた。
「笑ってんじゃないわよ、マスター」
「ふふ、すみません。職質された方に会うのは初めてでして」
「あ、私も初めてです! 本当にあるんですね、職質」
「ちょっと! 笑い事じゃないわ! あのおっさん来たら文句言ってやるんだから」
ようやく腕を離され莉乃はいつの間にか目の前にあったケーキ皿に添えられたフォークを手に取った。あたしの話よりケーキなの? ウエイターの言葉が届いたか届かなかったか。莉乃は今日のケーキも美味しいです、と大きな声で感想を告げる。
ケーキには勝てないのね。莉乃の背中に取り付いたままため息を吐いたウエイターはふと足音を聞いて視線を喫茶店の扉へ向ける。取り付かれたまま同じ場所を見ると制服姿からは想像できない、くたびれたコートを着た猫背気味の男が気怠そうに来店した。
莉乃の背中にあった重さと温かさが消えウエイターは大股で入り口まで歩く。
「ねえちょっとおっさん!」
「なんだよ、怪しいお兄さん」
「あんたね、あたしって分かってて近寄ってきたでしょ!」
「いや? 同僚が怪しい車があるって言うから着いてっただけ」
言い争う二人を眺めながら莉乃は最後の一口を食べた。
ウエイターはおそらく本気で怒っているのだろうけれど仲いい人同士の喧嘩に見える。噛みつかんばかりのウエイターをひらひらと片手を振って躱した男は珍しくカウンター席に莉乃と一つ席を空けて座った。
改めてお礼を言おうとすると見越したようにお礼は要らない、と笑われる。
「うーん、言うのすげえ迷うなあ。莉乃さん、おっさんの戯言だと思って聞いてくれるか?」
「え、もちろ――んっ」
言葉の途中で背中からウエイターに寄りかかられる。
「おい、話の邪魔するなよ」
「うるっさいわね、あんな面倒なことがあったんだから莉乃ちゃんで充電しないとやってられないわ」
「何で充電してんだ。はあ、これは本当に戯言なんだけどな。莉乃さん、歩いてる姿が結構無防備なんだ。多分客引きにとっては格好の餌に見えるくらい」
ウエイターを背に乗せたまま莉乃は首を傾げる。
仕事してますという髪型に、小綺麗な服と鞄。目的地を感じさせないゆっくりした歩み。普段の仕事で疲れているのか癖なのか少し地面に向けた自信なさげな視線。
「考えたこと、なかったです」
「まあ、ルール違反の客引きが悪ではあるけど自衛できたらそれが良いだろ」
歩き方と視線は金をかけずに直せるから、もし客引きが声をかけなくなれば怖い思いもせずに済み。
何より自分の仕事が減る。
マスターの出したケーキの三分の一ほどを一口で食べる男もやはり優しい。きっと言えばまた笑って否定してくるだろうから言わないけれど、莉乃は紅茶で顔を隠すようにカップを両手で持ち上げた。
「よいしょ、と。そんな簡単に言っても歩き方も視線もすぐ直るものじゃ無いでしょ」
莉乃の視線を遮るように男と彼女の間の席に席にウエイターが座ると頬杖をつく。
じゃあ迎えに行ったら良い、怪しくないようにな。
再び始まる口論。ため息を吐いたマスターが莉乃の名前を小さな声で呼び、口論から離れた席を指し示した。音を立てないように席を移動する。口論というよりはウエイターが文句を言い、男が笑いながらそれを笑って躱している。
「仲が良いようにしか見えませんね」
お代わりの紅茶を差し出すマスターの言葉に笑って同意を返す。
「このお店のお客さんは皆優しいですよね。最近は夕方ばかりですけどお昼に一人で来るのも色々心配しなくていいので安心です」
「――莉乃さんもそんなお客様の一人ですよ」
「そうだと良いんですけどね。ご馳走様でした」
「莉乃ちゃん! 来週お買い物行きましょ!」
のんびりと紅茶を飲み終えた立ち上がった莉乃の目に楽しそうに笑うウエイターが立つ。
言われていることの意図が分からず首をかしげればウエイターの向こう側に座る男からちゃんと説明しろと言葉が飛ぶ。
歩く速さも視線の向きも一人ではそうそう直せない。だったら事情を知る人間と出掛けて見てもらえば良い。
「莉乃ちゃんと行けば普段入りづらいお店も入れるし」
「そっちが目的だろ」
「お互い利があるんだから良いじゃない、ね!」
満面の笑みで笑いかけられ莉乃は曖昧に笑い返した。
彼女の後ろからうちの従業員がすみません、とため息交じりでマスターが謝った。
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