第5話 怖かった日

 

 土曜日の夕方と夜の間。日は落ちて街灯が足下を照らす。


 今週も夕方に向かう喫茶店。すっかり日の暮れたこの時間に喫茶店を訪れることが多くなった。朝や昼よりも騒がしいけれど朝や夜よりも店員と客の距離が近い。悪く言えば馴れ馴れしいが。


 莉乃は視線を上げた。暗闇の中にぼんやりと喫茶店の明かりが浮かび、見慣れない影が二つ自分と向かい合う形で歩いてくる。自分と同じくらいの年頃か、それより若い男である。それとなく道を譲るように歩道側に歩みを寄せるが、向かい合う男二人は談笑に夢中なのか莉乃へ向かって歩いてくる。


 せめてぶつからないように軽く頭を下げて避けるように動いた。


 しかしすれ違いざまに強く腕を掴まれた。


 驚きと恐怖に小さく声を上げるが腕は離れず腕を掴んでいる男へ目を向ければようやく腕が離れる。


 痛くなかった? 笑いながら悪びれもしない口調。取られた腕を庇う莉乃の心拍数が上がる。これは良くない、良くないと分かる。


 目の前の喫茶店につながる道は男たちに塞がれている。逃げても、さっきのような力で捕まれば逃げられない。何より。


 怖い。


 莉乃の怯えを知ってか知らずか男たちは笑い合う。


「お姉さん帰るところ?」


 莉乃の行く道を塞いだまま男が笑う。もしそうなら自分たちのお店で飲もうよ、と。断ったらまた腕を掴まれるのだろうか。恐ろしさから助けを呼ぶような考えは起きず声を出そうとしても出ない。怖くないよ、と目の前で笑う二人の男が恐ろしい。


 思わず片足を引くと追い詰めるように二人の男が一歩詰め寄ってくる。逃げたい、けれど逃げられない。先程掴まれた腕を強く強く握った。


 ふ、と僅かな風が吹いて莉乃の前に「壁」が出来た。風に乗って甘い匂いが彼女の周りを漂う。


「この人、用事あるから」


 彼女の前に立ち阻む大きな壁、影は目の前の景色を見せないように立ち向こう側に居る男たちに向けてそう言った。男の人たちが笑いながら遠ざかっていくのを聞き、莉乃は無意識に目の前の影が着ているエプロンの端を握った。


「パティシエさん」


 いつだったか夕方の喫茶店に試作ケーキを持ってきたパティシエが振り向き心配そうに眉を寄せて身を屈める。


「あの、ありがとうございま、す」


 目の奥がツンと痛くなりうつむくと何かが零れそうになる。目の前で慌てるパティシエに大丈夫だと伝えたくても言葉が出てこない。


「お店、行ける?」


 先程男たちが居た方向から庇うように身を屈めるパティシエの言葉に頷き、ただエプロンを掴んだ手は離せない。ごめんなさい。そう言おうとするとパティシエは少しだけ笑った。そのままで良い。


 いつもの喫茶店の人が居てくれる。その安心感に溢れそうな物を堪えて莉乃はパティシエのエプロンを掴んだまま歩き出す。身長は頭ひとつ分も違い足の長さも違う。のろのろと歩いているはずなのに全く同じ速さで歩いてくれるパティシエの姿に半ば隠れるようにして喫茶店へ入った。


「あら、パティシエちゃんそっちから来るなんてめずらし」


 不自然に途切れるいつもの声に思わず莉乃は店の中に踏み出していつものその人の元へ走った。半ば突撃してくるような彼女をウエイターは難なく抱き止める。


「だいじょうぶ。大丈夫よー」


 化粧が服に付いてしまうかもしれない。お店で走ってしまった。迷惑をかけている。莉乃の頭にある不安も、先ほどの恐怖も。何も聞いてこない目の前の人は許してくれるし宥めてくれる。何の確信も無いけれどきっとそう。


 子供をあやすように大丈夫と繰り返すウエイターの腕の中で莉乃は泣くのを堪えるように唸っていた。


 

 走っていった莉乃を見送ったマスターはパティシエに視線を移した。心配そうに莉乃を見ている。


 パティシエが店の常連である彼女を泣かせたとは思えない。だがもし彼女が仕事や普段の生活で何かあればここまで来ない。遠慮しがちな莉乃は喫茶店に来ることなく、または気付かれないように何とかしようとする。


「何があったか聞いても良いですか?」


 マスターの問いにパティシエは店の外を見る。


「多分、飲み屋? の、強引な客引き」


 莉乃には聞こえない小さな言葉。


 合点がいくと同時に嫌悪感と強い罪悪感がマスターの心に満ちる。


 この時間、この場所を歩く予定が無ければあんな泣くほど怖い思いをせずに済んだ。日が落ちる、日が落ちた時間に誘ったのは自分とウエイター。配慮不足にも程がある。女の子一人が歩いていれば客引きには格好の餌。周りに人が居たとしても知り合いでもない人が彼女を助けることは稀だろう。


「何にしても莉乃さんが落ち着いてからですね」


「うん、僕はケーキ持ってくる。忘れてた」


「ああ、はい。貴方は大丈夫とは思いますが、気を付けて」


「うん、ありがとう」


 パティシエが店を出るとウエイターが大層不機嫌そうにため息を吐いてカウンター席に腰掛ける。


「莉乃さんは」


「一人にするのは不安だからテーブル使ってもらってお化粧直し中よ」


 何かに苛立つウエイターはぐずっていた莉乃から大体の経緯を聞いた。


 日が落ちてこの喫茶店に向かおうとしていたところで男二人に声をかけられ、腕を捕まれ、パティシエに助けてもらい、喫茶店まで来られたこと。


 考えはマスターとウエイターも同じ。


 夕方に来なければ怖い目に遭うことは無い。


「夕方に莉乃ちゃんを呼ばない選択肢は無しよ。解決になってないし、なによりあたしが嫌だもの」


「莉乃さんが良いといえば構いません。ですが同じことを繰り返すわけにはいきません」


「あたしが送迎出来れば良いんだけど」


「そこまで迷惑はかけられませーん!」


 明るい声と姿がウエイターの背に寄りかかった。


「あら、もう大丈夫かしら」


「はい。マスターさんもすみません、その、ご迷惑おかけして」


「謝るべきはこちらですから。お怪我が無いのは幸いですが……どうしましょうか」


「んー、そうねえ。少なくとも今日は家の近くまで送るわね。あっ!」


 急な声に肩を跳ねさせた莉乃に一言謝りウエイターは店の奥に駆けていく。


 入れ替わりに店の奥から黄色いトレイを抱えたパティシエが店側に入る。以前と同じように漂う甘い匂いにウエイターが座っていた椅子に腰を下ろした莉乃が身を乗り出す。


 前と変わらない姿にマスターとパティシエが柔らかく微笑みカウンターにケーキを並べる。どれが良いですか? 変わらない問に莉乃は目を輝かせる。


「ねーえ、今から一人呼ぶわね。そいつにどうにかしてもらいましょ」


 店の奥から顔を出したウエイターは美味しそうにケーキを頬張る莉乃を見て思わず吹き出した。

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