第3話 夕方
陽が落ち始める時間、言われた通り女は夕飯を食べず喫茶店の扉を押した。鈴の音は鳴らず中から建物の明かりが漏れ出す。こんばんは、と口に出す前に大きな声でいらっしゃいと叫んだウエイターが彼女を腕の中に抱き込んだ。
この時間に会いたかった。と言う彼の力は強く背に添えるわけにもいかない女の手はふわふわと彷徨うように持ち上げられる。
「おーい、お姉ちゃん困ってんぞー」
女にとって聞いたことのない緩い声が聞こえるとウエイターは慌てたように離れた。
エプロンをしていないだけでいつも通りのウエイターは女の肩を支えるように優しく手を添えて痛みはないかと聞く。平気、と女が笑いかけウエイターも笑い返す。カウンターにどうぞ、と道を譲り広がる女の視界に一人、知らない人が居た。
最大四人が座れるテーブル席に座るその男はよれたシワだらけのコートを空いた椅子にかけ、コーヒーを飲んでいた。彼はマスターの言うごくわずかな常連の一人だろうか。
カウンターに座れば視界はいつも見ている物に変わった。
「いらっしゃいませ、ちょうどよかったですね。どうぞ」
紅茶やケーキが差し出されるカウンターの向こう側から出てきたのは水の入ったグラスと、オムライスの乗った皿。思わず両手で受け取ると匂いに刺激されてお腹が鳴る。丸くお椀型にとろっとした卵が乗り、上からデミグラスソースが広がる。オムライスの傍にはサラダもある。
「マスター、あたしに出したのよりオシャレに作ってなーい?」
もう一人居た客の追加注文のためカウンターに戻ってきたウエイターがオムライスを覗き込む。
女は我慢できずにスプーンで大きくオムライスを掬い取り、口にいれる。
「見ていて嬉しいので」
カウンター向こうからマスターが見ていることに気づくことなくオムライスを食べ進める女は一口毎に味を噛み締めるように動きを止め、大きな一口をスプーンにとっては口に運ぶ。
「ほんと、美味しそうというか幸せそうね」
見られていることにも気付かず女はオムライスを食べ進め、サラダも含め綺麗に食べきると空皿は横からウエイターに回収される。
「美味しかったです!」
「それは良かったです。デザートはもうすぐ届くのでお待ちくださいね」
デザートもあるんですか。いつもより大きな声にマスターは笑顔を返す。甘いものですが。目に見えて輝く女の目にマスターは思わず自分の口元を隠した。声が出そうなほどに面白い。
ウエイターとの雑談と時折継ぎ足される紅茶と、後ろから聞こえてくるため息交じりの雑談を楽しんでいるとふいにカウンター向こうにある店の裏に繋がる扉が開く。
お疲れ様です。マスターの言葉に他に働いていた人が居たのかと目を向けると初めましての視線が絡んだ。その視線はすぐに訪れた人の方で逸らされた。背中側でまとめられた尻尾毛が少しだけ見える。シンプルな茶色のエプロンをしたとても体格の良い男の人。その人は大きな黄色いトレイをマスターに手渡す。カウンターの向こうから香る甘い匂いに思わず身を乗り出した。
体格の良い人が持っていたトレイの中には色とりどり鮮やかなケーキがいくつか置かれていた。普段店で見るケーキもあれば見たことが無いケーキもある。
「ケーキ屋さんですか?」
女の言葉にウエイターがくすくすと笑う。
「可愛い言い方するわね。その人はパティシエさんよ。それでこっちはこの前の試作ケーキを幸せそうに食べた子」
「あっ、あのケーキ。美味しかったですもん。その、感想上手じゃないんですけど。本当に美味しくて」
身振り手振りを交えての女の言葉にパティシエの男は恐る恐る、ゆっくりと視線を上げて彼女を見ると笑った。愛想笑いにはとても見えない子どものような笑顔に彼女もまた安心し笑い返す。
「いっそ庇護欲が湧いてくるわ」
「お客様にあまり抱きつかない」
パティシエに笑いかける女の背後から体重を乗せるように抱きついたウエイターは間延びした返事を返すと彼女の背中から退いた。
幾つか種類の違うケーキがカウンターに並ぶ。
どれが良いですか?
並ぶのはどれも普段店のメニューに並ばないケーキばかり。全て試作品です。抹茶色のモンブランにミルクレープに、チョコケーキにチーズケーキ。どれも美味しそう。彼女の言葉にパティシエから笑みが溢れる。
本当に選んで良いのか迷いながらチョコケーキを手に取る。
残ったケーキのうち二つ、モンブランとチーズケーキがウエイターの手でシルバーに乗せられる。どこに行くのだろうかとフォークを握りしめながら見ているとシルバーはそのまま女の背後のテーブル席。くたびれたコートを椅子にかけていた男の前に運ばれた。どこか弾んだ声のお礼が聞こえた。
残るミルクレープを取ったウエイターが隣に座るまでを見届けてしまう。
「後ろのおっさんが気になるかしら?」
さくりとミルクレープを小さく切り取る。女の背後から、聞こえてんぞーと文句が届く。
「あのおっさんは甘いものが好きなんだけど昼間は人目が気になるって」
「何か言ってくる人がいるんだ……。ここのケーキはすっごく美味しいからそれで食べられなくなるのは勿体ないですね」
がん。と、大きな音が響いた。
パティシエの腕の中から空になったトレイが落ちる。すみません。マスターが謝りトレイを拾い上げるとパティシエへ渡す。
「気にしなくていいわよ。多分嬉しかっただけ、ね?」
パティシエが何度も頷きながらトレイを受け取り抱える。
「……ここのケーキ、美味しくなかったこと無いですよ?」
「こーら、追い打ちしないの」
「そこのお嬢さんの言う通りだと思うけどな、ごちそーさん。美味かったよ」
背後から伸びてきた腕が重なった二枚の皿とフォークをカウンターに返した。
「ありがとうございます、今日はもうお帰りですか?」
「最近やんちゃなガキが多くてね、朝早いんだよ。支払い昼にまとめてもいいか?」
「ええ、構いませんよ」
「じゃ、外はもう暗いだろうしお嬢さんも帰り気を付けてな」
「あ、はい。ありがとうございます」
しわだらけのコートを肩に掛けた男は女の返事を聞くと小さく微笑んで店から出ていった。猫背でよく分からないが出ていった中年の男も体格が良い。パティシエは服の上から鍛えていることが分かるが、あの男は服に隠れ猫背で分からないだけできっと。
女は正面に向き直りチョコケーキを食べた。甘すぎず苦すぎず、けれどチョコレートらしい甘さはちゃんと感じられる。間にチョコクリームではなく板チョコのようなチョコも挟まれていて食べていて楽しい食感もある。
美味しい。最後に女の口から出るのはこの一言だったがパティシエは笑い、ありがとう、と返す。
「ね。あたし貴女の名前知りたいんだけど聞いても大丈夫?」
食後の紅茶を両手で抱えていた。
「大丈夫ですよ、私は莉乃(りの)と言います」
「そう、莉乃ちゃん。今日は寝られそう?」
化粧に隠した隈に触れられて彼女は笑った。
「はい! 皆さんのお陰でぐっすり寝れそうです!」
それは良かった。マスターとウエイターの声が重なり、皆で笑った。
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