第2話 疲れた日

 

 はふ、とカウンター席に座る際に漏れた小さな小さなため息を二人は聞き逃さなかった。


 外に降りしきる雨のせいか客の居ない店内。ぱたぱたを小さく駆ける足音をたしなめるため開いた口をマスターは閉じる。今にもカウンターに突っ伏しそうな女の目の前まで駆けたウエイターは勢いよく隣の席に腰掛ける。


「あ、こんにちは」


 いつもなら店に入った段階で女は挨拶をする。いつもなら。


 じいっとその顔を見詰めウエイターは手を伸ばした。その熱を感じそうなほど近く女の目元に手を伸ばされ彼女は首を傾げる。控えめで少し臆病な彼女なら少しは身を引くはずだがそれすらもない。


 薄い化粧の向こう側、目の下は僅かに黒く沈んでいる。


「眠れてないわね?」


 疑問系のようで確定されている言葉に返事をすることができず、ようやく少しだけウエイターの手から逃げるように身を引いた。


 追いかけるようにゆっくりと近づいてくる手はマスターの「お客様に触らない」という一言で不満げに動きを止める。心配そうにも不機嫌にも見えるウエイターから視線を外してメニューへ視線を落とす。


 紅茶と、日替わりケーキのセット。いつもの注文にマスターはいつも通り一つ頷く。


 注文が入ればウエイターも準備を始める。いつも元気なウエイターが何も言わず注文準備を進める様子を見ていられず、女はカウンター上の水を見詰めた。ことりと目の前に紅茶が置かれる。


 いつもなら果物の香りが漂う紅茶から爽やかな香りが届いてくる。


 見れば紅茶の上に鮮やかな緑の双葉が浮かぶ。


「お嫌いでなければ。ハーブティーです」


 マスターが気まぐれで注文を変えてくるのはもう何度目だろう。全く悪い気はせず、いつも美味しいものが出てくる。これもきっと。女は紅茶の入ったカップを持ち上げる。


 僅かにソーサーと触れ合うカップが音を立て、マスターとウエイターが一瞬視線を交錯させる。


 爽やかな香りに目を細め紅茶を味わう女の隣にウエイターが座る。相変わらず美味しそうにするわね。ウエイターのからかうような口調に彼女はいつも美味しいから、と笑う。ようやく見えた彼女の笑顔にウエイターも笑い返す。


 ケーキも美味しい。そう言ってケーキをつつく彼女はいつもと変わらない幸せそうな表情に見えるが、目の下にある黒い隈が消えるわけではない。


「いつも土曜日に来てくださいますが、明日はお休みですか?」


 珍しくマスターから声をかけられる。慌ててフォークを置くと皿がかちんと音を立てる。


「はい、休みです。お昼まで寝ちゃうんですけどね」


「あら、じゃあ夕方は暇?」


「夕ご飯作って……あ、でも最近はコンビニのお弁当で済ませちゃうのでのんびりしてます」


 コンビニ弁当。


 弾かれるようにウエイターが立ち上がる。椅子が倒れ店内で聞いたことのないウエイターの低い声と大きな物音に女の肩が跳ねる。


「あら、ごめんなさい」


 いつもの声色に戻ったウエイターはすぐに椅子を元に戻し座り直すと頬杖をついてカウンター向こうのマスターへ視線を向ける。


「コンビニのお弁当を習慣化させちゃうのは良くないわよ。ねえマスター?」


「構いませんよ。貴方のまかないは作りますし一人分も二人分も変わりません」


「決まりね! 明日の夕方、そうね。六時頃に夕ご飯を抜いてここに来られるかしら」


 ケーキの最後のひとかけを口に入れる。


 ウエイターさんは何を言っているのだろうか。女は首を傾げる。ウエイターさんとマスターで話している内容に自分は関係ないと思いあまり内容を聞けていなかったが。紅茶でケーキを飲み込むと後味は残らず心地よい。


 この喫茶店は金曜日から日曜日の午前から昼過ぎまでの営業であり夕方は営業していないはず。時折店内で「夕方も来たい」という話を聞くことはあるが開いていないものはどうしようもないと思っていた。


 来ることは出来ますけど。


 お店がやっていないのに?そう言葉を続ける前にウエイターは満面の笑みで両手を上げた。夕方に会えるのね。喜びながら店の清掃をすると言って弾むように席を空けたウエイター。


 マスターはカウンター向こうから空になったケーキ皿を回収すると説明する。


 このお店は基本週末の朝から昼までの営業。だが、数時間の休憩後ごくわずかな常連だけを対象に夜まで営業を続けている。完全予約制で事前に来ることを知らされていない場合店を閉めることもあるが基本的には一人、二人程度のために店は空いている。メニューは無くその時々で店に残る商品や料理を提供する。他言は無用だが当日であっても事前に連絡があれば店は空けられる。昼とは異なる客と顔を合わせることもあるだろうが店で聞いたことを他言するような人間は居ない。


 説明のためかいつもの何倍も多いマスターの言葉に一つ頷く。マスターは微笑んで、だから夕方は何を話しても大丈夫なのだと言う。


「ではまた明日」


 マスターの言葉と意図を理解する前に紅茶を飲み切り、精算を終えた彼女は外から店の外観を見上げる。


 夕方だから何が違うと、正直なことを言えば思っていた。

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