第16話 名前呼びという特別感

「飯伏さん」


「はい?」

「はい?」


 メリーさんの問いかけに、俺と母は平和ボケした反応をしてみせる。

当然だが、俺も飯伏で母も飯伏なので、呼ばれれば二人とも返事をしてしまうのは必然だ。


 さて、現在の状況を簡単に説明をしよう。

俺達は母の車に乗せられて実家へと到着し、居間でのんびりと過ごしている。

時刻は15時と夕飯には早い時間帯だったので、こうしてお茶をすするながら雑談をしていたわけだが、ちょっとした問題が発生したのだ。


 それが、メリーさんの”飯伏”呼び問題である。

普段から彼女は俺を名字で呼んでいるのだけれど、現状、この空間には母と俺、つまりは二人の飯伏が存在しているのだ。


となれば、メリーさんが「飯伏さん」と口を開けば、どちらの飯伏を指しているのか分からなくなるわけで。


 すると、母はお茶を喉に通したあと、うっとりとした顔で提案してみせる。


「ねえ、メリーさん。私のこと浪子って呼んでくれないかしら〜」


 しまった!! そうきたか。

 母の提案に先制を越されたと思わずにはいられなかった。


 名前呼び。それは名字という制度が生まれた際に誕生した人間関係の親密さを表す指標。

彗星の如く短い人生において、殆どの人からの呼称は名字で呼ばれるだけで終了するであろう。


だが、それ故に名前呼びは特別感が増すのである。親友、家族、そして、恋人など。名前呼びは、それだけでプライスレスな価値があるのである。相手に向ける感情が高ければ高いほど、その値は計り知れないものへと変貌する。


 それこそ、俺とて例外ではなく、可愛い娘に名前呼びされたいと思うのは健全な思考であってだな。メリーさんに名前呼びをしてほしいと思っていてだね。


 ”真宏さん……”

 思わず脳内で俺の名前を呼んでくれるメリーさんを想像してしまう。良い……。


 そして、血を分け与えてくれた母も例外はないというか……趣味嗜好が一緒なのだろう。母もメリーさんに名前呼びをしてほしいのか、”飯伏”呼びが間際らしいという絶対的な理由を引っさげて提案をしてきたのである。


 そうなると、メリーさんも名前呼びに大義名分が出来上がるのか、抵抗なく母を名前で呼んでくれる。


「わかりました、浪子さん」


「……っ!!」


 どうやら母は名前呼びにご満悦なのか、目を閉じて噛みしめるように”浪子”と呼ばれたのを堪能している。


 ちくしょう、幸せそうな顔をしよって。


 というより、出会ってから数時間しか経過していないのに、随分とメリーさんを気に入ったようだ。養子に迎え入れようと発言したのが冗談ではないと思えてきたぞ。


 こうなると、悔しさが勝ってきたな。俺も名前で呼んでほしい。


「ねえ、メリーさん。俺も”真宏”でいいよ」


「え?」


「だって、俺も飯伏でややこしいし。だから、名前で大丈夫だよ」


「そ、そうですね。飯伏さんだけ飯伏さんのままだといけませんし」


 すると、メリーさんは目線を斜め下に傾けて、数秒ほど沈黙する。そして、頬を赤らめながら遠慮がちに口を開く。


「真宏……さん」


「ボフッ!!」


 は、破壊力高ぇ……。


 よもや名前を口にしてもらえるだけで、語彙力が崩壊するほどの威力をみせるとは。

赤面+上目遣い+名前呼び=出来栄えの喜びGDEが最高点を叩き出しちゃうよ。金メダル取れちゃうよ。


 あまりにも感動しすぎて、母と俺が黙り込んでしまったので、メリーさんが不安になったのか慌て始める。


「あ、えっと。浪子さんも真宏さんも顔色が優れませんが平気ですか?」


「お母さん、ちょっと夕飯の仕込みをしてくるわね」


 どうやら母は我慢ができなかったのか、居間から台所へと移動をして退避をする。逃げよった。

おかげさまで、メリーさんの不安は増大したのだろう。俺の隣へと移動し、耳元で囁いてくれる。


「あの、真宏さん。私、なにかしてしまいましたでしょうか?」


「ビクッ」


 いきなりの耳打ちに体が跳ねてしまう。それりゃあ、いきなりメリーさんASMRなんて展開されたら心臓も飛び跳ねるってもんよ。しかも、名前呼び付き。いい値で買い取りたい。


 冗談はさておき、これ以上はメリーさんを動揺させるわけにはいかないな。

右腕をつねって快楽を痛みへと上書きして、俺はメリーさんに見仏みたいな笑顔で返事をする。


「たぶん、母さんは嬉しいんだよ。今まで俺……息子が女っ気が無かったからさ。こうやって可愛い女の子が来てくれて嬉しいんだよ」


「娘ができたみたいな気持ちなのでしょうか」


「そんな感じだろうね。だから、メリーさんさえよければ、仲良くしてほしいかな」


「はい、もちろんです!! 私も真宏さんのお母さんと仲良くなりたいですから」


 そう告げるメリーさんの顔色に照明みたいな明るさが戻る。そして、「浪子さん、私にもお手伝いさせてください」と、台所へ向かう。


 いつも見慣れた母の後ろ姿に、金色の長い髪が輝く姿が加わる。その光景を眺めがなら俺はお茶を一口含む。


「どうして忘れていたんだろう」


 いつだって、母は仕事で忙しかった。それと同じくらい、家では俺に沢山の背中を見せてくれた。


台所に立ち、朝昼晩、欠かさずご飯を作ってくれた。

暑い日も凍える風が吹く日も、ベランダで洗濯物を毎日干してくれた。

家の中はホコリが残らないように、懸命に掃除をしていた。


 顔こそ見えないけれど、その背中が全てを教えてくれたんだ。

 愛されていないだなんて考えて……馬鹿だな、俺。


「さて、俺も掃除をしようかな」


 このまま呆けていても申し訳ない。雑巾を持ち出して、テレビ裏や棚などの埃が溜まりやすい箇所の掃除を行っていく。掃除も、料理も、他の家事についても。生きる上で必要な常識は全て母は教えてくれた。おかげで一人暮らしも苦労せずに過ごせている。


「愛情だらけだな」


 汚れを落としながら苦笑を浮かべてしまう。ただでさえ、母は仕事で忙しくて疲れているはずなのに、それ以外の時間は全部、息子の為に使ってくれたんだ。

これで愛と呼ばずになんと表現すべきか。


「ありがとう、母さん」


 母の背中を見つめながらポツリと呟いてみせる。残念ながら母はメリーさんと話すのに夢中みたいだから、言葉は届いていないみたいだけれど。


 こうして、一通りの汚れを落として、床に残った埃を掃除機で吸い上げて掃除を完了させる。同時に、母が台所から顔を覗かせて頼みごとをしてくる。


「真宏。砂糖が切れちゃったから買ってきてくれないかしら」


「分かった。アレだよね」


「そう、アレで買ってきて。砂糖以外は大丈夫だから」


 それこそ、ツーカーで通ずる”アレ”という謎の単語にメリーさんは不思議そうな顔をしている。

まあ、知らないとそうなるよね。


「ああ、ごめんねメリーさん。アレってのは阿連マートっていう近所にあるスーパーだよ。だから通称アレ」


「なるほど。浪子さんも真宏さんも”アレ”で会話をなされていたので驚いちゃいました。ここから近いのですか?」


「うん。歩いて5分とかからない場所にあるよ。俺が物心つく頃には既にあったスーパーだから、大学に進学した時になくてビックリしたなぁ」


「ふふ……真宏さんの子ども時代からあったなんて凄いです。興味が出てきたので、私が行ってきてもいいですか?」


 すると、メリーさんは俺に近づいてきて、小声で伝えてくれる。


「私が居ると邪魔ですし。お母さんに聞きたいのですよね?」


 どうやらメリーさんに気を利かせてしまったらしい。

すっかり自分自身で納得してしまい忘れかけていたけれど、今回の目的は母に『俺を愛しているのか?』と、確認する為に帰省してきたのだ。答えはほぼ分かりきってはいるが、目的は達成されていない状況なのは変わりない。


 きちんと向き合うと決めたからには、最後まで筋は通しておくべきだろう。


「メリーさん、ごめんね」


「いいえ。私も目的を忘れて楽しみすぎちゃいました。それでは、行ってきますね」


「ちょっと待ってメリーさん。近いからといって場所は分からないでしょ。俺のスマフォを貸すよ」


 俺はポケットから自身のスマートフォンにある地図アプリを起動して、阿連マートの場所にピンを指す。

これでヨシっと。そのままメリーさんに手渡す。


「真宏さん、ありがとうございます。でも、地図アプリなら真宏さんに貸して頂いている電子タブレットでも見れますけど」


「それ、wifiが無いとネットに繋がらないでしょ? それに、何かあった時に連絡できないし」


「そうでした。では、真宏さんの端末、お借りしますね」


 そうして、メリーさんは玄関で靴を履き、阿連マートへ向けて姿を消していく。残ったのは俺と母の二人きり。せっかくメリーさんがお膳立てしてくれたんだ。しっかりと結果を残さないと。


 おかげで緊張して喉が乾いてきた。居間のテーブルに乗ったお茶を飲み、覚悟を決める。すると、母が台所から離れて、居間へと腰を下ろす。


「母さん、料理はいいの?」


「だいたいの準備は終わったからね。煮物用の砂糖があれば完成よ」


「そっか」


 母も何となくではあるけれど、察しているのだろう。買い物に行くと言ったメリーさんを引き止めなかったのが何よりの証拠だ。息子が突然、帰ってきたのだもの。流石に分かるよな。


 俺は唾を飲み込み、心を落ち着かせる。そして、母に向けて質問を投げるのであった。


「母さん、俺のことを恨んでいない?」

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