第72話 一番の淑女
それから、いつまでもあれやこれやと広間で話していた貴族たちは、待ちくたびれた城の侍従たちに促されて、各々、家や派閥ごとに割り振られた控室に移動させられたわ。しばらくして、軽食をつまみながら一息ついている我が家の控室に、近衛を引き連れたヴォイドがやってきた。お父様とお兄様と内緒話をしたりして。もう、ヴォイドはいつもそうなのよ。家に住み込んで働いていた時から、いつもお父様とお兄様ばかり。
ささくれた気持ちで三人を眺めていた私に、ようやくヴォイドが目を向けたの。それからお母さまのほうを見て、
「本日の生誕祝賀会は滞りなく無事に式次第を終えました」
貴族の笑みを浮かべて、ヴォイドがそういったの。細かい説明はしないけど、事態は収束したということね。でも、よかった。ヴォイドがこうしてここにきて、すまし顔で何か悪いことをしてるってことは、殿下はご無事だったんだわ。
一礼をして、ヴォイドは部屋を辞去していく。
「ヴォイドッ」
その背中を、私は思わず呼び止めてしまった。ヴォイドが言葉もなく振り向いた。灰色の瞳が、今は私だけを映している。
「私、今日はお父様に新しいドレスを仕立てていただいたの」
「お似合いです」
ヴォイドの唇が弧を描く。ダメ、目が怒っているわ。
「ダンスもたくさん練習してきたのに、一曲も踊れなかったわ」
「それは……、残念なことでございました」
あ、怒りを通り越して呆れてるみたい。でも、ここで言わなくちゃ他に機会がないわ。
「私、ダンスも上手になったし、詩もたくさん暗唱できるようになったし、所作も美しくなったでしょ?」
ヴォイドが二度三度瞬きをして、それからふっと微笑んだ。
「ええ、公爵令嬢に相応しい、大変立派な淑女ぶりです。アダリンドお嬢様」
私もにっこりと微笑み返した。
「今日は生誕祝賀会がつつがなく終わってよかったわね、ヴォイド」
淑女らしく労いを贈る。
「恐縮です」
言葉とは裏腹に、ヴォイドは人が悪そうな笑顔を見せた。それから、一同を見回してもう一度一礼をすると、今度は振り向かずに部屋を出て行った。そして、予定終了時刻にはそれぞれが帰路についたの。
「お兄様、ヴォイドと何を話していたの?」
帰りの馬車に、私は上機嫌で揺られていた。
「ああ、後日発表になるが。叛徒どもは皆家族は置いてきていたようでな。控室にいた従者ともども急病ということになった。殿下のご厚意で城で静養するが、闘病むなしく自宅へは無言の帰宅となる。急なことであるし、爵位の継承に支障がないように各家に城から監督官が入るそうだ。それに、特定地域で複数人が病に倒れたことから、地域の風土病を調査するために軍の医療部隊が派遣されることになる」
「あの地域は帝国領になって暮らし向きが良くなったことで、領民は逆に信仰が薄くなっていたらしい。今回の件は、そのような領民にしびれを切らして自棄を起こした一部の領主たちの成れの果てということだ」
「お父様、では、領民たちにお咎めはないんですのね?」
「ああ、後継ぎ達には監督官が十分な助言を行うといっていたからな。実質は皇家の準直轄領になるということだ」
「領民はともかく、後継者や家臣も叛徒かもしれませんわ」
「その時には風土病が広がるであろう。発症者は軍の医療部隊に保護されて適切な治療を受け、血縁や家門から新たに人選される。監督官の目に適う領主と家臣団となるまで、な」
お父様がしれっと答えた。
「帝国の領土は広大だ。治めるためには綺麗事だけで済まぬのは仕方あるまい」
言葉を失った私を、宥めるようにお兄様がいう。
「だが、領民の暮らし向きはより豊かになろう」
「ああ、パンと見世物に不自由しなくなるはずだ」
マクラウドが食糧だけでなく、商隊や吟遊詩人なんかを大挙して送り込むから投資しないかと誘われた、とお父様がホクホクしている。
「芝居小屋や遊技場、大浴場なども全域に建てるそうだ。宮城の施策に沿った出資だからな、固い儲けが約束されているというわけだ」
「まあ、ヴォイドったら転んでもただでは起きない? それとも、焼け太り?」
「アダリンド、口を慎めと何度言ったらわかる? それにしても今日は本当に肝が冷えたぞ」
「何かございました、お兄様?」
「頼むからヴォイドに絡むような真似をしてくれるな。殿下の腹心の機嫌を損ねたくない」
「まあ、私が話しかけたら機嫌を損ねるなんて思うお兄様が失礼なのですわ。騒動の後だって、他にも公爵家や有力な侯爵家もあるのに、ヴォイドが自ら説明にきたのですもの。お父様だって投資に誘われたのでしょう? もし我が家に含みがあれば、他の人間に任せるのではないかしら?」
「それはそうだが……」
「私、決めましたの。ヴォイドを婿取りいたしますわ。お父様、子爵か伯爵か、爵位を一ついただけないかしら?」
「アダリンド? 急に何を。往路では殿下を射止めるといっていたではないか」
「殿下には決まった方がいらっしゃるのですもの。次に家のためになる相手といえば、ヴォイドだと思いませんこと?」
お母さまが珍しく声を上げて笑った。
「そうね、殿下の腹心たるヴォイドが我が家の婿に入ってくれたら、とても心強いわね」
「そうでしょう? もっともっと我が家を優遇してくれるに違いありませんわ」
「いくつ年齢が違うと思っているんだ? 母上も同調しないでください」
「お兄様ったら。貴族の婚姻ですもの、10歳やそこら問題になりませんわ」
「まあ、確かに。ヴォイドはまだ独身だしな」
「10歳ではきかぬであろう! それに父上まで。全く、幼い頃からヴォイドヴォイドと、アダリンドがこんなに執念深いとは……」
お兄様が頭を抱えてしまった。
忘れないわ。あの日。お兄様がお城の園遊会に行くと聞いて、私も一緒に行きたいとお願いをしたの。でも、私はまだ規定の年齢に足りなくて許して貰えなかった。気分を損ねた私は一人になりたくて、庭の生垣の陰に隠れていたら、ヴォイドに見つかってしまったの。部屋に連れ戻そうとするヴォイドに、私は八つ当たりをした。
“ヴォイドはお城に行けるのに、どうして私は行けないの? 公爵令嬢なのに”
ヴォイドが半分と呼ばれているのを知っていて、私はそういってしまった。でも、ヴォイドは怒ったりしなかった。
“アダリンドお嬢様。ご覧なさい、こんなにドレスを汚して。ほら、ここは破れてしまっていますよ。公爵令嬢というのは、貴族では一番の淑女でなければなりません。生まれがご立派でも中身が伴わないお嬢様は、まだ名ばかり公爵令嬢です”
“じゃあ、私が立派な公爵令嬢になったらお城に行ける?”
“ええ、何度でも。お城にはそれはそれは大きな噴水や美しい庭園、バラの迷路なんかもございますよ。磨き上げられてつるつるの大理石の廊下に、赤い絨毯の敷かれた、長い弧を描く階段も。温室には外国の鳥が放し飼いされていて、奥様の扇のように美しい羽根を広げているそうです”
“私、早くお城に行ける公爵令嬢になりたいわ!”
“立派な公爵令嬢になるのは大変なことです。こんな風に衣装を泥で汚したり破いたりしてはいけません。ドレスを美しい所作で着こなして、お食事は好き嫌いなくしっかり召し上がること。詩集を暗唱したり、上手にダンスを踊ったり、それから御家紋の刺繍もできなければいけません”
“わかったわ、私、立派な公爵令嬢になる。そうしたらお城に連れて行ってね”
“承知しました。お嬢様はこれからお勉強の時間でしょう? それだけの決意があるのなら、本日私たちが宮城から戻るまでに、きっと課題の詩は暗誦できるようになるはずですね?”
戻ったら課題の確認をいたしましょう、ヴォイドはにっこりと笑った。私はほんの少し後悔しながら、できるわ! と答えた。ヴォイド頷いて、“失礼します”と私を抱き上げた。幼い頃は早く歩けなくて、急ぐ時には時々そんな風に運んでくれていた。
“課題はダンスがいいわ”というと、“では明日の課題にいたしましょう”とヴォイドがいったの。
“約束よ”
“ええ、約束です”
ヴォイドの顔は見えなかったけれど、胸元につけた耳に響いてくる声音に安心した私は、そのまま眠ってしまった。私たちはあの日、確かに二人だけで“約束”をしたの。なのに。
ヴォイドはお兄様と園遊会に行って、それっきり。リンドバーグ邸には戻ってこなかった。皇太子殿下のお目に止まって召し上げられたから仕方がないんだって、お兄様とお父様はいう。ヴォイドは嘘つきで裏切者。お兄様やお父様が許しても、私だけは絶対にヴォイドを許さない。……でも、今からだって“約束”を守ってくれたらそれでいいの。私は貴族では一番の淑女である公爵令嬢なんだから。約束を果たすのがちょっと遅れたくらいで、怒ったりはしないのよ。
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