第71話 聖女降臨


上背のある殿下は、いつも貴族たちを不愛想に見下ろしていた。その殿下が、今、床に片膝をついていたの。ダンスは止まったのに、音楽は止むことなく華やかな旋律を描いていた。誰も声を出すことができずにいた。瞬きほどの間のはずなのに、時が止まったように感じたわ。ゆっくりとゆっくりと。そして、殿下が彼女を危険から遠ざけるように突き飛ばした。ヴォイドが、殿下の護衛騎士が、近衛たちが。殿下に駆け寄ろうとしたその時。遠ざけられたはずの彼女が、誰より早く殿下に覆いかぶさった。


そこに二の矢三の矢が。いいえ、最初の矢が合図だったのでしょう。幾本もの矢が舞踏曲を引き裂いて殿下に、彼女に降り注いだ。恐ろしくて、私は思わず目を背けようとしたのだけれど。それよりも早く、カッと眩しい光が瞬いた。目がくらんで、私は庇うように目元に手をかざした。幾度か瞬きを繰り返して、視界が戻った時には。矢は全て威力を失って、殿下と彼女の周りに散らばって落ちていたわ。


「殿下!」

いつも落ち着いているヴォイドが、必死の形相で叫んでいたわ。

「オレは大事ない。ローリ、無事か?」

ヴォイドと護衛騎士に抱き起された殿下が、彼女に声をかけた。彼女は言葉にならないようで、泣きぬれたまま、殿下の手を両手で包み込んで何度か小さく頷いて見せた。


「捕らえました!」

野太い声が二階のバルコニー席から響いたの。広間に引きずってこられたのは、貴族家の当主らしい立派な夜会服を着た5人の男達だった。会場の他の貴族達と違っているのは、全員がその首に変わった赤いストールをかけていることね。

「ハイツアルマ教か……」

お兄様が苦々しくつぶやいた。

「なんですの、その、ハイマツ……?」

「ハイツアルマ、だ。北方で雨の少ない痩せた土地柄のせいか、唯一神を奉ずる地域でな。周囲を併合して大きくなった、多民族、多宗教国家たる帝国の国柄とは相容れぬ、敬虔を通り越した過激な連中が、時折他教の者に絡んだりして騒ぎを起こすと聞くが、まさかここまでとは」

「なぜ騒ぎを?」

「彼らにとって、神とは彼らの奉ずる神だけ。だがこの帝国では教会が主に信じられているだろう? 神殿もあるし、各地域にはそれぞれ土着の神がいて、それらは一神教ですらないことも多い。そして、誰がどの神を信じるか、または信じないかは自由だ。それが、彼らには我慢がならぬことなのだ。おそらくは、その状態をよしとしている皇帝や次代の皇帝を弑することで自分たちの望む世界を作ろうとしたのやもしれぬ」


床に組み伏せられた彼らは、屈強な近衛に押し潰されながらも、なぜか恍惚な表情を見せていたの。

「貴族家の当主本人らが相手では、近衛も防ぎようがなかったのであろう。領地と領民を守ってこその貴族が、まさかそれらを放りだして己が命と引き換えてまで自ら手を汚してあのような所業にいたるとは。せめて家督を譲って市井に落ちてからならば己一人の罪となろうものを。庶民では殿下に近づけぬからと当主のまま罪を犯しては、家は、家臣は、領民はどうなる? 勝ち誇った顔をして、奴ら貴族の風上にも置けぬ」

お兄様は忌々しそうにそういった。


「我らが神を敬わぬものには報いを!」

「背教者をせん滅せよ!」

「黙れ!」

声高に叫び続ける彼らに、あまりの見苦しさ故か、近衛の一人が拳をふるったの。そうしたら、彼らはなぜかとても嬉しそうに笑った。

「お前らの主はすぐに果てる。主を失った犬はみじめなものよ」

「なにを!」

「矢には毒を塗ってあった。もう間に合わないだろう」

我らが神に栄光を! と叫ぶと、彼らは次々に口に含んでいた毒をかみ砕いて自害していったの。彼らを床に放置して、近衛たちは縋るような眼で殿下を見つめたわ。


ハイツアルマ教徒たちに気を取られていたけれど、居並ぶ貴族たちも皆我に返って殿下を振り返ったわ。矢傷は浅かったようで、今はもう抜かれていたの。険しい顔をしたヴォイドが短刀で殿下の衣装を切り裂いて、傷口を水で洗い流している。護衛騎士は肩口を紐で縛っていた。でも、殿下の顔色は先ほどよりも大分青くなっている。それなのに。

「ローリ、大事ない。オレはいつも鍛錬をしている頑丈な男だ」

お辛いでしょうに、優し気に微笑んで。殿下は自分の手を両手で包み込んで歯を食いしばっている令嬢の、頬を慰めるように撫でていたの。


ああ、こんなことってないわ。つい先ほどは絵本の主人公たちのように幸せそうに踊っていたのに。それに。いつも余裕綽々で、目上の者を敬う気があるのかしら? と疑うようなヴォイドが。あんな辛そうな、暗い目をして。私は思わず手を組んだ。ああ、神様。帝国の、教会でも、神殿でも、どこかの地域の神様でも。お願いです。どうか殿下をお助けください。ただ、そう祈るしかできなかったの。


その時。

「浄化!」

件の令嬢が叫んだの。こんな可愛らしい声なのねって、私は場違いなことを考えてしまったわ。そうしたら、また殿下の周囲に光が溢れたの。

「浄化!」

「浄化!」

彼女が意味の分からない言葉を叫ぶたびに、殿下の周囲が輝いて、でも不思議と、繰り返すうちに光が徐々に小さくなっていったわ。


「浄化!」

彼女、何度叫んだかしら? 殿下の周囲が輝かなくなって、それでも何事かを繰り返していた彼女が急にどさりと殿下の上に倒れこんだ。

「ローリ!」

叫んだ殿下の声は、先ほどと違ってとても力強くて。顔色も青みがすっかりと消えていたわ。むしろ彼女のほうが血の気を失って白くなっていた。そうしたら、殿下が跳ねるように起き上がったの。一体、矢傷と毒はどうなったのかと不思議に思うほど、迅速に力強く。彼女を抱き上げて、殿下は皇族用の扉を潜って消えていった。護衛騎士や近衛の何人かもそれについていったわ。ヴォイドはそちらを気にしながらも、貴族たちのほうに向きなおった。


「皇太子殿下の、次代の皇帝陛下の一の側近として申し上げる。本日、皆さまがここで耳目にしたことは、各家の名誉と皇家に対する忠誠心にかけて他言無用と願います」

静まり返る広間。厳しい顔つきのヴォイドに、お父様も含めて幾人かの当主が頷いてみせたわ。ヴォイドは広間をぐるりと見渡し、貴族らしくニコリと微笑むと。

「控室に軽食をお持ちいたします。皆様どうぞ、しばし休憩なさってください」そういって、貴族の礼をとった。


いつの間にか、皇族方の席がある壇上は幕が降ろされて見えなくなっていた。騒ぎが起きた時に壇上の出入り口から避難されたのでしょうね。ヴォイドも殿下を追うように、広間をあとにしていく。そして、貴族だけが残された広間で。


「あれを見たか? あの女、おかしな光で矢を弾いていたぞ」

「それだけじゃない、殿下の毒を消したんだ」

「何をいっている?」

「まさか、貴卿ら本当に彼女の仕業だなんて信じているのか?」

「だって光っていたぞ!」

「私だってこの目で見た。彼女が『浄化』と云う度に殿下のお身体が光って。矢傷から流れ出た血が消えていった」

「それをいうなら、あの叛徒どももだ。見ろ、殿下からあんなに離れているのに。毒を含んで口から零していた血が、今はすっかり消えているぞ」

「あれはなんだ?」

「人の技ではない」

「恐ろしい……」

「素晴らしい!」


誰も控室に下がろうとせず。口々に今見た出来事を少し興奮気味に否定したり、肯定したりしていたわ。彼女の素性や衣装、所作をあれこれと噂していたことなど比べ物にならぬ熱量で。あんなものを見た後では仕方ないわね。ここを出れば、誰に話すこともできないのだし。興奮、不安、動揺、羨望。そんなものが様々に入り混じって、どんどんと膨れ上がっていったの。


「皆さん、落ち着いてください」

そこへ教会の枢機卿が歩み出た。

「ご安心ください。恐れることはありません。私たちの経典には、今日の奇跡が予言されておりました。国の危機を救う聖なる乙女が現れると」

「おおっ!」

「まさに、あれこそ聖なる乙女だ」

貴族たちがどよめくと。

「お待ちください!」

今度は神殿の神官長が歩み出たわ。


「我々の聖典にも神の御使いの救いの手についての記述がございます。曰く、

聖なる光をもって衆生を救う、と」

「聖なる光! 確かに」

また貴族たちがどよめいた。


「私たちの聖なる乙女です」

「我々の神の御使いです」

枢機卿と神官長がにらみ合う中。


「聖女降臨か」

誰かの小さな呟きが、一瞬静まり返った広間に響いた。枢機卿も神官長も、ばっと辺りを見回したけれど、誰が発したのかはわからなかったようだったわ。


「聖女か……」

「聖女であったか」

そんな呟きと共に、納得の空気が広間にさざ波のように広がっていったの。それは、“乗っかってしまおう”という大方の貴族の意思表示でもあったのだと思うわ。この不思議な出来事が、特定の宗教の手柄にされたら今後が何かと面倒。ここにいるのは全員貴族だから、そんな政治的な損得勘定には敏感なのね。そんなわけで、二人の聖職者の声高な主張をよそに、今日の出来事は貴族たちの間では「聖女降臨」ということになったのよ。

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