第73話 thanks a million



「いってきます」

一人、ノルド様の生誕祝賀会に向かう馬車に乗り込んだ。貴族でも、従者は控室まで。おじいさまとメリンダさんは貴族ではないから城に入ることすらできない。マクラウド邸の玄関で、なぜか二人とも涙ぐんで、私を見送ってくれた。御者の人達と馬は、おじいさまの知り合いの貴族から借りたという。でも、四頭のうちの一頭はタビーだから、私はそれだけでも心強かった。


お城の馬車寄せに到着した。扉が開くと、ヴォイドさんが貴族らしいすまし顔で手を差し出してきた。

「来てくれると思っていました」

「はい、私、来ました」

ヴォイドさんが目で頷いて、私はヴォイドさんに手を預けた。さあ、ここからは戦場だ。タビー、いってくるね! わずかに振り向いて心の中で告げると、タビーは“ブフフン”と小さく嘶いてたてがみを揺らしてくれた。“背筋を伸ばして! 顎を引いて、視線は遠く!”心の中の家庭教師の先生の指示に従い、“優雅な微笑”を貼り付ける。ヴォイドさんの後ろに立っていたいつもの二人の騎士様にも微笑んで視線を流すと、なぜか少し困った顔をされてしまった。


遠巻きにされながら、たくさんの人達の間を通ってどんどんとお城の奥へと進んでいく。と、ふいにヴォイドさんが立ち止まった。

「盛装をした女性には長い距離を歩かせてすみません。そして、ここからはおひとりで歩いてください」

と、エスコートしてくれていた手が離れた。

「淑女に対する礼儀に反して申し訳ないのですが。主があなたを馬車寄せまで迎えに行きたいといわれるのを抑えて私が代わった上に、着飾ったあなたの手を取って歩いているところを見られるとご機嫌を損ねてしまいますのでね」

至極真面目な顔で、ヴォイドさんがいった。そして、もうすぐですから、というヴォイドさんの後についてゆっくりと歩いていく。


「さあ、こちらです」

開いた扉の向こうは、美しい中庭だった。ゆっくりと足を踏み入れる。

「ローリ!」

扉のそばの長椅子から、ノルド様が立ち上がり、足早によってくる。立派な騎士の正礼装姿だった。おじいさまの家に来ていた時の、巡回騎士の制服も素敵だったけれど。金の頸飾に赤いサッシュをかけて、その身分にふさわしい豪華で華やかな装いはノルド様を一層引き立てている。


「よく来てくれた」

私の手を掬い取るようにして口づけてくれた。

「とてもきれいだ。いつもの、町娘の姿もかわいいが」

「ありがとうございます」

みんなはノルド様は無口で不愛想だというけれど、私は割と饒舌で、そしてとても“お上手”だと思ってしまう。私のほうがよっぽど口下手で、嬉しいとか、かっこいいとか、思っていることを一つも口にできていない。


そうしているうちに後ろで扉がぱたりと閉じて、この中庭には私たち二人きりのようだ。

「あちらの四阿に飲み物の用意がある」

ノルド様に手を取られ、ゆっくりと進んでいく。

「このドレスは、何人かの皇族の女性の姿絵をじいさまに見せて頼んだのだ。皇家にゆかりの女性がよく着るために、エンパイアドレスといわれている。これを着ていれば登城が初めてのお前でも、不用意な真似をする者はおるまい」

「とても美しいドレスです。お気遣いありがとうございます」

実はヴォイドが考えたのだ、とノルド様は笑った。


「急なことでお前の望むドレスを仕立ててやれずにすまぬ。次は好きに誂えるとよい」

「皆さんがそれぞれに私のことを慮ってくださったドレスでここに来られて、とても嬉しいです」

「そうか。お前はやはり情の厚い女であるな」

こちらだ、と促されてクッションの敷かれた長椅子に腰掛ける。ノルド様も隣に腰を下ろした。テーブルには、果実水の注がれた銀のゴブレットと水差しが準備してある。ノルド様が早速口をつけて、ゴブレットを戻すと小さく息をついた。


「オレの分は、果実水ではなくワインにすればよかった」

私もゴブレットを置いて、ノルド様に目をやった。

「美しく装ったお前がここに来てくれて、とても嬉しいのだ。それが過ぎて、どうも落ち着かぬ。酒が欲しくなるなど、オレも未熟であるな」

「私も少し緊張しています」

「そうか、お前もか」

二人で目をあわせて、小さく微笑みあった。それから、お互い庭園に視線を流す。そよかに風が頬を撫でて、遠くで鳥の声がする。あの湖のようだと思うと、心が落ち着いてくる。立派な部屋でなく、ここで待っていてくれたノルド様も同じように感じてくれているのかもしれない。


「私、ノルド様にお伝えしたいことがあるのです」

隣に座っているノルド様を見上げた。

「聞こう」

ノルド様も私を見下ろしてくる。その目を見つめ返して。

「私も、生涯をノルド様と共に過ごしたいです」

「ローリ」

ノルド様が私の両の手をとって、その額に押し付けた。青紫の目をつぶったまま、言葉を紡ぐ。真摯に、まるで懺悔をするように。


「あの湖で出会った時から、オレはお前を喜ばせたいと思っていた。悲しませたくないと、幸せにしたいと思っているのだ。だが、オレは面倒な立場の男で、お前には煩わしい思いや息苦しいことばかりになってしまうやもしれぬ。危険が伴うこともあろう。わかっているのだ、だから一度はお前をあきらめようと思った。お前が望む平穏で静かな生活を送れるように見守っていければよいと思った。だが、やはりあきらめられなかった。お前は自由だ。どこにだって行けるし、何でもできる。美しく、優しく、聡明で、お前を守りたいという男などいくらもいよう。それでも、譲ることは決してできぬ。狭量なオレを選んでくれたお前に、心からの感謝を」

パッと目が開いて、ノルド様がありがとうといった。私を見つめる、美しい青紫の瞳。ノルド様にとっては、皇帝の座につながる鎖のように感じることもあるのかもしれない。


「私は、生国で国を治める者の伴侶となるべく育てられてきました。努力して様々なことを身に着け、将来は伴侶と国を支えていくのだからと自分を律してきました。でも、それらの全てが無に帰して、自分はなんて無力で無意味な存在なのかと失望していました。それから、国を逃げ出して、自由だけど空っぽな私になったと思っていました。ノルド様が私を望んでくださって、ふさわしい身分も何もかも失った私には過ぎた夢だと諦めそうになりました。でも、空っぽではないと、努力して身に着けてきた全てが今もこの手にあるとノルド様とヴォイドさんが気づかせてくれた」

「ヴォイドもか」

ノルド様がにやりと笑った。

「はい、ヴォイドさんもです。あとはおじいさまも、騎士の皆さんも、串焼き屋のおかみさんも」

「そうか」

ノルド様が優し気にその目を細めた。


「空っぽだと思っていた私の中には、ノルド様のお傍にいるために必要そうなことがたくさん詰まっていたし、冷たく凍り付いていると思っていた私の周りは、いつの間にかたくさんの温かい手で包まれていました。辛かったことも、悲しかったことも、全てここに、ノルド様のもとに至るまでの道しるべだったのかと今では思えて。過去が辛かったことは変えられないけれど、今は、私、とても幸せだって思えるんです。だから」

ありがとうございます、とノルド様にこたえた。


「ローリ、愛している」

ノルド様の大きな体に包み込まれた。

「オレは次代の皇帝として、お前の夫として、この帝国を守っていこう。お前に相応しい皇帝になると約束する」

抱きしめる腕にぎゅっと一度強く力がこめられて、離れていく。代わりに目を閉じたノルド様の顔が近づいてきて、私は胸を高鳴らせ……。


「殿下、そろそろ広間のほうへ」

いつの間にか四阿の前に立っていたヴォイドさんの、恭しい声がした。

「ヴォイド、其方無粋ではないか?」

「恐れながら、令嬢の衣装や化粧を整えられる者はここにはおりません。式典の前に乱されますと困ります」

「後ならよいのか?」

「ご随意に」

「ヴォイドさん?!」


まずは一番お美しい姿を貴族に見せつけて機先を制すが肝要かと、とヴォイドさんが人の悪い顔をして、ノルド様の唇が弧を描いた。

「そういうことであれば致し方あるまいな」

「ご理解いただけて恐縮です」

「では、ローリ。いくか」

ノルド様が立ち上がり、白い手袋をした手が差し出される。

「オレの伴侶を貴族どもに見せびらかしてやろう」




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