第67話 相棒
祖父の街から宮城へ戻ったものの、なんだかんだと忙殺されて殿下の執務室にようやく戻れた時には、もう夜を迎えていた。扉の前に誰も立っていないので、殿下はもう私室に戻られたのだろう。明日に備えて少しだけ書類を片付けようかと鍵を差し込むと、手ごたえなく空回りをする。施錠忘れか、明日近衛どもに苦言を呈さねばとドアを開けると。正面、殿下の執務机の斜め後ろにある護衛騎士用の控えの椅子に座っているシュヴァルツがいた。
「驚かせるな。てっきり誰もいないと思ったのに」
驚愕に飲んだ息を吐きだす。
メインの灯りは落ちて、いくつかの補助用の灯りと窓から差し込む月明かりが、うっすらとその巨体の影を床に映していた。
「こんな時間までどうした? 殿下がお部屋に戻られたのなら、お前の仕事も終わりだろう? いつものように早く帰ったらどうだ」
私は自分用の執務机につきながら、少し冷やかしをこめていった。シュヴァルツは愛妻家で子煩悩。仕事が終われば長居せずに飛んで家に帰る。自宅と城の往復以外に寄り道をしない生活ぶりを、城内の一部の心無い者からは、“伝書熊”などと揶揄されていた。
「お前を待っていた」
「なんだ? 何か緊急なことでも?」
シュヴァルツは首を振り、部屋の隅に鎮座するワゴンを指さす。
「厨房に頼んでおいた」
「お前が?」
席を立ってワゴンを確認すると、ソーセージやジャガイモを炒めたものやチーズなどが盛られた皿がいくつか乗っていた。それから、ワインとグラスが二つ。
「腹が減ったのなら、なおさら家に帰ればいいじゃないか」
「今日は、お前と飲むと決めた」
「そうか」
珍しいこともあるもんだなと軽口を叩きながら、私はローテーブルに素早く皿を並べた。私と飲むといいながら、準備は全部私にさせるのがシュヴァルツだ。こういう雑事をこなすことを期待してはいけない。
彼を振り向き、人差し指で二度ほど手招きをすると、シュバルツも席を立ち近づいてきた。
「なかなかいいワインだ」
向かいの長椅子に腰を下ろした彼のグラスに注いでやる。それから自分のグラスにも。
「いいのを出してくれるように頼んだ」
「そうか」
それから、二人でグラスを合わせる。澄んだ音が響いて、ワインを一口含む。と、喉を落ちて、少し胃の腑に染みるような感覚。ふうっと、覚えず小さく息を吐いた。
「今日はすまなかったな。おかげで無事に祖父の家に行くことができたよ」
「そうか」
「いつもは私がアリバイを作る係なのに、今日は逆になってしまったな」
「ああ」
シュヴァルツは面白くもなさそうに、ソーセージを口に放り込んでいる。他人が見たらまるで怒っていると誤解されるだろうが。彼は特に表情が動かないだけなのを、私は知っていた。先日、殿下越しに見た驚きの表情を思い出して、微かに笑いが漏れてしまう。彼の眉が少しあがる。急に笑った私を訝しく思っているのだろう。
「ご令嬢の様子は?」
何本かのソーセージをワインで流し込んで、シュヴァルツがいった。
「なんだ、気になっていたのか」
「ああ」
「あの様子なら大丈夫だろう。マクラウド家の総力を結集したドレスで舞踏会に乗り込んでくるさ」
「そうか」
「近衛の連中は最初からご令嬢贔屓だったから嬉しいだろう?」
少しあてつけてやると、シュヴァルツはソーセージばりに太い指で鼻の横を二度三度掻いた。グラスを置くと、また小さなため息がこぼれた。シュヴァルツがこちらを見てくる。“どうした?”とか口に出せばいいのに。私は背もたれに体を預けて、小さく首を振ってみせた。
「今日は柄にもないことをしてしまったと思って。いささか自己嫌悪に陥っているところだ。少し仕事で頭を冷やしてから休もうと思っていたのに、お前がいて酒盛りになってしまったが」
「なぜだ? ご令嬢が気持ちを固めてくれたのならお手柄じゃないか」
「私の半分そこらの年齢の少女に、大人げなくも言いたい放題いってしまった。今日話したことの半分くらいは余計であった気がするし、他にもやりようがあったはずなのに」
シュヴァルツは私を見ながら、ソーセージをまた口に入れる。続きを勝手に話せというのだろう。
ローザリンデ。ゲィケンズ公爵家の長女。生まれながらに高位貴族の地位を持つ、まごうかたなき純血の貴族。私の持てなかったもの。その二つがあれば、こんな困難はなかっただろうにと自分を慰めた日も確かにあった。けれど、今の自分には彼女が羨ましくは思えなかった。その二つがあったからこそ、彼女は単騎で生家を逃げ出さざるを得ないほどの困難に直面してしまったのだから。
持てる者と持たざる者。正反対の出自なのに、私たちは似ている。親の決断に振り回され、誰かに認められたくて“努力”を選んだ。それしか選べなかった非力な子供だったという点で、その弱さと強さがわかってしまうから。彼女の存在は私にとって傷ましくもあり、忌々しくもある。もう過去に置いてきたはずの自分の亡霊のようだ。寝台で転げまわりたくなるような、涙腺が刺激されるような、胸の奥がじゅくじゅくと膿むような。なるべく視界にいれたくない存在。
同時に、今の私なら、彼女を救えるのではないかという驕りもある。半分そこらの年齢の少女に、自分と同じような苦労をさせなくてもいいのではないかという気持ちは、自分が大人になった証左だろうか。いや、そんなことを考えること自体が大きなお世話だ。私は彼女の親でも恋人でもない。彼女の人生は、彼女とその手をとった者が道を選べばいい。つないだ手の先に殿下がいれば、私は殿下をお支えする。それだけだ。正反対の私と彼女、すくいあげてくれたのが殿下であったことも、また不思議な縁ではある。私の主は、やはり素晴らしい。それなのに。
「心を尽くすというのならイルメリアの愚か者どもよりも、我らの主こそふさわしいお方であるのに。あのご令嬢が煮え切らぬのがいささか腹立たしかった」
そういうと、珍しくシュヴァルツが口もとをゆるめた。
「確かに、大人げないな」
「ああ、大人げなかった」
「権謀術数に長けるとも、女心とか、恋心とかいうものは謀には収まりきらぬということだ。お前も結婚してみればさらに知略が深まるのではないか?」
日頃はろくに口を開かぬくせに。先ほど、さっさと家に帰れと揶揄ったことへの意趣返しか。
「これからは女心とか恋心とかを勘定にいれずともよい謀をするさ」
「頭を使うのはお前の役目だ」
今度は私が口もとをゆるめた。互いにはっきりと役割分担をしているから、本来水と油のように相容れぬ我らでも上手くやってこられたのだろう。月光が差し込む窓に目線を移す。暗がりの向こうに広がる庭園は今は見えない。あの日、宮城の片隅で若君に足蹴にされなければ、ここに私の執務机はなく。シュヴァルツとこうして杯を交わすこともなかったはずだ。
「私は今の私を気に入っているんだ。二心なくお仕えできる良き主と、裏を探る心配のない気の良い同僚たちに恵まれて、過分な地位をいただき、やりがいある仕事に邁進する日々。子供の頃に描いた夢とは違う形になったけれど、マクラウド商会ともいい関係を築けている」
頷くシュヴァルツを横目に、私もソーセージをワインで流し込む。うかうかしていたらすべてシュヴァルツの腹に収まってしまう。
「だけど、彼女を見ていると。私も、ヴォイドの家に入ると告げられた時にもっと抗ってみてもよかったのかと思ってしまうんだ。マクラウドの商隊にでも潜り込んで国の端っこまで逃げて。どこかの店で住み込みで働かせてもらうこともできただろうに。母に泣き言をいっただけで、結局おとなしく言うなりになってしまった。そのくせに何年も“貴族になんかなりたくなかった”と心の中で恨み言を募らせて。うら若き生粋の貴族令嬢が、自由を得るために単騎で大森林さえ越えてきたというのに。なんとも情けない話ではないか」
「お前はまだその時分、10歳にも満たなかったのだろう?」
「平民であればそれくらいで働きだす者も多い」
「そうか」
シュヴァルツが最後のソーセージを口にして、一つ皿が空になってしまった。
「お前、肉ばかりでなくこっちのイモも食べたらどうだ?」
「イモはこれから食べるところだ」
「あと二皿三皿多く頼んでおけばよかったのに」
「そうだな」
私はチーズと相盛りにされた干し肉を口にした。市井のものに比べると日持ちしないが、塩気が控えめで柔らかい。
「ご令嬢にはさもえらそうに、調子の良いことばかりをいってしまった。確かに私を面と向かって“半分”と呼ぶものはもういないけれど。女性にはまた別の敵がいる。彼女が実際に城に入れば少なからず苦労するとわかりきっているのに甘言を弄するなど。まさに子供だましではないか?」
「なんだ、ご令嬢に絆されたか」
「そういうことではない。私が日頃相手にするのは、自分よりも年かさの貴族男性ばかりだからな」
「城が平和の楽園でないことなど、本人もわかっている。王太子の婚約者だったんだから」
「そうか」
そうだな、と自然に呟いていた。
「お前がそのように逡巡するなど珍しい」
「それは、殿下の御不興を買うわけにはいかぬからな」
「そういうことにしておこう」
シュヴァルツのフォークがチーズを刺し、そしてイモを刺してから口に運ばれていく。
「お前、一度にまとめて食べるな」
「そのほうが旨い」
「それではつまみが先に空になってしまう。ワインはまだ半分以上あるのだから配分を考えろ」
「ワインだけでもかまわない」
「まったく」
シュヴァルツこそ生粋の貴族なのに。近衛という環境がよくないのだろうか? いや、他の近衛はみんな貴族を煮詰めたようなお高く止まったのばかりだ。私はまた干し肉を口に入れた。まあシュヴァルツの体格であれば、人一倍食べても足りないのは仕方がない。
「やっぱり、次はあと4皿5皿多く頼んでおくほうがいいな」
「ああ、次はワゴンの上下いっぱいにつまみを用意してもらおう」
シュヴァルツを真似て、チーズとイモを一度にフォークに刺し、口にする。確かに、このほうが旨いかもしれない。それからは特に何を話すでもなく、二人で黙々とイモとチーズを食べ進めていった。時々、干し肉。こんな風に二人で飲むのは悪くない。そう思っていると、ふいにシュヴァルツがいった。
「自分は相棒がお前でよかった」
シュヴァルツが私を見ている。筋肉で鎧われた太い首。まったく貴族らしくない。
「殿下もきっとそうだ。お前がどこか遠い街で商人になっていなくてよかった」
「そうか」
「そうだ」
シュヴァルツがグラスを干した。私もグラスを空にして、二つのグラスにワインを注ぐ。
「このワインはなかなか旨いな」
「ああ、旨いワインだ」
主のいない執務室で、仕事ではなく、こうして酒を酌み交わすのもたまにはいい。こんな夜があることも、私が今の私を気に入っている理由の一つだと思うのだ。
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