第65話 軍師の口上
「公爵邸を訪れた商人がいうには、庭師たちは王太子と公爵に随分憤っていたそうですよ。領地で蟄居となったあなたが、辛い思いをしていないかと。公爵領に商いにいったら様子をうかがってきて欲しいと頼まれたそうです」
「私、庭師の人たちとそうお話しをしたこともなかったのに。たまに庭園で花を見ていると、小さな花束を作ってくれたくらいで」
「そんな関係でもわかるくらい、あなたは努力をしていたのでしょう? 剣と馬だけでなく。その美しい帝国語しかり、所作しかり。私は裕福でも平民として暮らして、途中から貴族になった者です。それらを身に着けるのにどれだけの時間と労力がいるのか、客観的に理解できるつもりです」
「ヴォイドさん……」
「あなたは次期王妃となることを前提に、普通の令嬢よりもさらに高いレベルの結果が求められていたはずだ。それを当の婚約者や王家、親にまで足蹴にされたのだから失望もするでしょう。この帝国にきてまで皇妃になりたくないと思って当然です」
先ほど、恐ろしいと思った相手の口から流れ出す、私の心に寄り添うような優しい言葉。私は壁際の花瓶に視線を移す。どこまで知っているのだろう。どこまでわかってしまうのだろう。心の底まで見透かしてくるような灰色の瞳が恐ろしくて。
私には後継ぎという立場もなく、妹のような母譲りの華やかな美貌もなく。努力しかなかったけれど、努力が辛くなかったわけではない。それしかなかったから、そうしていただけだ。そうしないと居場所がないと思って。でも、実際にはいくらやっても居場所なんてできなかったとわかった時には婚約破棄をされた。レオニス様に恋心はなかったけれど、これ見よがしに男爵令嬢と過ごしている姿を見て傷つかなかった訳ではない。私の存在を、尊厳を、路傍の石のように蹴飛ばしていく人達。悲しかった。悔しかった。これ以上傷つかないためには、あそこから逃げ出すしかなかった。
ヴォイドさんは、私たちが似ているといってくれたけど。大きな違いがある。
ヴォイドさんは逃げられなかったのだ。生家と実家へのお咎めを恐れて。“半分”と呼ばれても、時に物理的に足蹴にされたって、貴族社会で努力を重ねて地位を築いてねじ伏せた。私とは違う、強い人だ。
「ご令嬢、“皇妃になりたくない”という理由で殿下を遠ざけるのはやめてほしいのです」
「ヴォイドさん、正確ではありません。私は“皇妃には足りない”のです。立派な資質があったうえで、“なる”“ならない”を選択できる人間ではないのです」
「私の調査では、イルメリアでのお妃教育は大変良い評価を受けていますが」
「そういえば、努力だけは認めてくれると、王妃様がおっしゃっていました」
失笑して、私は下唇を噛みしめてしまった。淑女にあるまじき行為だけれど、生国のことを、特に王家や公爵家のことを考えるとストレスを感じてしまう。そんな私を見て、なぜか、ヴォイドさんが口もとをゆるめた。
「私たちが似ているといったのは、そういうところです。あなたは自分を“至らない弱い娘”といいますが、本当は負けたくないでしょう? 王妃や父親といった、あなたを蔑ろにしてきた人達を見返してやりたいと思っているはずだ」
だって、今とても悔しそうな顔をしていますよ、とヴォイドさんがいう。私は動揺してしまった。確かに。これはあまりお上品ではないけれど、日本風にいえば“ムカつく”だ。悲しいでは決してない。
「わかりますよ、私たちはとても似ている。“できない”といいたくない。“できない”と思われたくもない。大層な負けず嫌いなんです。だから淡々と機会をうかがって、勝ち目が見えた時に勝負に出る。臆病なのではなく、用心深い。そしてとても小賢しい。でも一つ、違う点がある。私は殿下のお傍にいたので、努力が割合に正しく評価を受けられたけれど。あなたはその努力ごと踏みにじられてしまった」
かわいそうに。慈愛に満ちたといってもいい程優し気に、ヴォイドさんがいう。
「ねえ、おかしな話じゃないですか。あなたは自分を蔑んでくる、好意もない相手には認められようと皇族並みの帝国語さえ習得できてしまうのに。なぜあなたを愛し、あなたのために皇太子の地位を捨てようとまでする私の主からは逃げようとするんです?」
怖い。ヴォイドさんがとてもいい笑顔だから余計に怖い。
「自分は地べたに寝ても、あなたには柔らかく温かい寝床をと思いやる私の主が。私を騙してもあなたに会いに来てなにくれとなく世話を焼く主が、あなたの素性を調べたり、良い養子先がないものかと貴族家の後継ぎ連中を集めて手ずから情報収集をしたりする主が。なぜ愚かなイルメリアの王太子よりも雑な扱いを受けるのでしょう? 私は男女の機微には詳しくありませんけれど。殿下を好きというのなら、あなたはむしろイルメリアの王太子や王家のためにした努力の何倍も何十倍も頑張れるというものではないですか?」
私は目を見開いてしまった。目から鱗とはこういうことか。確かに。ヴォイドさんがいうことはいちいち正しい。
「好意を示してくれる相手にこそ、不義理な態度を返す自分をおかしいと思いませんか?」
そうだ。そんなことは恋愛以前に人間関係としておかしい。私は頷いた。ヴォイドさんも頷き返してくれた。
「あなたが皇妃になることをしり込みするのは、失敗したくないから。もっといえば、失敗して殿下に嫌われたくないという不安でしょう。だから失敗しないように、最初から勝負をしないというのも手段の一つではある。私が理解できないのは、あなたを大切にしない人達のためには“失敗しない努力”をし続けて、なぜあなたを大切にする主にはできないと思うのか、ということです。あなたが主を嫌いというならわかりますが」
そうではないのでしょう?とヴォイドさんが静かにいった。私はまた頷く。
「それに、殿下はあなたが失敗したくらいで心移りをされるような方ではありません。イルメリアの連中と同列に扱われるのは心外ですね」
「それは、すみません」
私は素直に謝罪した。そうだ。ノルド様はいつも優しく、私ができないこと、知らないことは惜しみなく教えて助けてくれる。火の扱いしかり、市井の言葉遣いや暮らしぶりしかり。生国の人達のように、叱責するだけで突き放したりはしないのだ。
私はここにきて、改めて。ノルド様が私に与えてくれたものを噛みしめる。好きというだけじゃなく。好きという前からずっと。好きといってくれた後も。この大陸の覇者たる大帝国の世継ぎの君。望めば叶わぬことなどないに等しい立場の人が、いつも私の気持ちを慮ってくれる。“望まぬ息苦しい暮らしをさせるかもしれない”“皇妃になりたくなければ二人で遠くにいこう”。そういって、いつも私に寄り添ってくれる。なのに私は、『無理』だとか『釣り合わない』だとか。いつもいつも自分の否定的な気持ちばかりおいかけていた。
「ご令嬢、動機が何であれ、努力して身に付いた結果はあなたのものです。国を治める者の伴侶となるべくこれまで身に着けてきた全て。人から与えられるものでも、お金で買えるものでもありません。何もかも、あなたがその手で勝ち得てきたものではないですか。“皇妃に足りない”とか、“資質がない”とか。今その手にあるものを無視しないでください。あなたが積み重ねてきた全てに、無駄なことなど一つもない。努力してきたあなたを、手に入れたものを、あなた自身が認めてあげなくてどうするんです?」
ああ、ノルド様のいう通り。私はこんなに遠く離れた帝国まできて、私を認めてくれない父の物差しにまだ囚われているのか。あの日、父の書斎で。努力なんて結果が伴わなければ価値がないといい捨てられた。私は父のその言葉が受け入れがたくて、婚約破棄の書類を破り捨てた。これまでの努力を、私を認めて欲しくて。
それなのに今の私は。これまでの努力など“皇妃”になるには足りるはずがないと。届かないかもしれないから手を伸ばしたくないといっているのだ。私を好きといってくれた人の気持ちに応えるよりも、己の手の短さを恥じて隠すことばかり気にしている。私の良いところを、『オレの皇妃に相応しい』といってくれたノルド様より、私がいかに足らないかとあげつらう家族や王家の人達に支配されたまま? まだ逃げきれない? いや、皇妃という重責を恐れて彼らを逃げ口上に利用しているだけかもしれない。私は……。
じっとティーカップを見つめている私に、ヴォイドさんがいう。
「殿下を寝台に縛り付けたり、湖畔にお迎えにあがった私たちと戦おうとしたり。女だてらに行軍に同行したかとと思えば、令嬢なのに店を持って生計を立てようとする。機を見た時のあなたは、本当に予想外なことばかりでした。そんなあなたが、私の主が選んだ女性が、ただ弱く己の境遇を嘆いて逃げ回るだけの臆病者なはずがない。未知のことにはことさら慎重に、だけど決してあきらめず、涙を流したって歯を食いしばって前にすすもうとする。本当のあなたは、そういう人ではないですか?」
そうやって、年端もいかぬ少女が大森林を馬とたった二人で越えてきたのでしょう? そういって私を見るヴォイドさんは、いつもの貴族然としたすまし顔ではなくて。色味は違うけれど、おじいさまやエディさんとよく似た雰囲気の、どこか悲しそうな笑顔は、やはりこの人もマクラウドの人なんだと思わせた。
「あなたが帝国の皇妃としては後ろ盾が弱いのも確かです。ですが、マクラウド家が支援いたしましょう。爵位はなくても資金は潤沢ですし、手足となる子飼いの貴族家もある。そしてヴォイド家も、シュヴァルツ家も。それに、皇妃というのはこの帝国においては皇帝の妻というだけの存在です。政治的な責任も権限もありません。殿下にプロポーズをされただけで、その資格は十分といえるのですよ」
ふ、と小さく笑いがこみ上げてしまった。エミリー様も、誰かにこんなことを言われていたのかもしれない。でも、私には。好きという気持ちだけでなく、お妃教育を通じて身に着けてきたたくさんのことがある。文化発信地である帝国でどこまで通用するかはわからないけれど、全くのゼロではない。自信なんて全然ない。でも、私は。結局のところ、私を好きといってくれたノルド様に嫌われるのが一番怖いのだ。
そう、ヴォイドさんのいう通り、私が失敗したところで、ノルド様は私を嫌いになったりする人ではない。だから頑張ってみてもいいのではないか。立派な皇妃になるためではなく、ノルド様のそばにいるために。みんなが、顔も知らない帝国のたくさんの貴族たちが認めてくれる理想の皇妃にはなれないことを恐れても、私には意味がないじゃないか。そんなことのためにノルド様の手を離してしまうなんて、大切な奇跡を放り投げることこそ私にはできない。
「ヴォイドさん、私……」
顔をあげ、灰色の瞳を正面から見て、次の言葉を考える私を待たずに、ヴォイドさんが話し出す。
「近く、殿下の生誕祝賀会が開かれます。宮城で、国中の貴族が集まる盛大な夜会です。その気になったら、ご令嬢もいらしてください」
こちらが招待状です、と。テーブルにノルド様のシグネットリングを同じ紋章の封蝋がされた招待状を置いて、立ち上がった。足早にドアに向かう足を止めて、振り返る。
「今、宮城で私を“半分”と呼ぶものはいません。あなたは立派な皇妃になります。殿下の守役にして一の側近であるこの私が保証します。あなたも、これまでの努力を、その成果を確かめてみませんか? そして、あなたを見下してきた人達を一緒に見返してやりませんか? 共に、殿下のお傍で」
人が悪そうに笑うと、今後こそ振り向かずにヴォイドさんは部屋を出て行った。
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